銀行員


まだ僕が5才くらいのときの事だが、その頃通っていた幼稚園で「お店屋さんごっこ」が行われた。施設内全域を使って、職員や園児や父兄がみんな参加した。紙を切って作られたお金で、買い物をするのだ。お店の側で品物を売ったり、買い手として商品を買ったりした。


ところでその「お店屋さんごっこ」において立ち並ぶお店の一角に、なんと、銀行もあった。でも僕は当時、まだ銀行という機構について基本的なところを理解しておらず、よく知らないけど銀行に行けばおカネがもらえるのでは?と勝手に想像していた。お店で何かを買って、お金を失ってしまうのだから、おそらくみんな、銀行に行って、おカネをもらうのだろうと思ったのだ。


「お店屋さんごっこ」では最初、皆に等しく幾らかのお金が配布され、それを使って擬似商取引というか擬似消費活動をするのだが、僕はおそらく「お店屋さんごっこ」が始まって一時間もしないうちに、知り合いが営む店で有り金を全部使い果たしてしまった。そこで僕は、その足で銀行に行った。そして、窓口に座っていた銀行員に「すいません、お金くれませんか?」と申告した。


その銀行員は、見かけない顔のやつだった。そいつはこちらを睨むように見て、一瞬考えるそぶりをした後、にこりともせず、机の引き出しから何枚かの紙幣を取り出し、無造作な態度でこちらにその紙幣を投げてよこした。


僕は、ありがとうと一応礼を言って、投げ出されたその紙幣を受取り、何事もなかったかのようにその銀行を後にしたのだが、しかしその銀行員の、如何にも偉そうで固物そうな、ユーモアも愛想の欠片もない態度に、内心かなりムカついていた。しかしまぁ、こうして金は無事手に入れたのだから。と、気を取り直し、また別の知り合いがはじめたらしい飲食の店を訪ねるために、少し早足になって渡り廊下を移動した。


お店は、どこも繁盛していて、活気があり、楽しかった。職員も園児も父兄も、皆がある種の一体感を感じつつ、この「お店屋さんごっこ」というイベントが、成功に近づきつつあることを肌で実感していた。僕と同じ組のお友達たちも、誰も彼もが、上記した面持ちで、思い思いの装飾を施した店構えで、楽しげにご自慢の料理やアクセサリー販売に腕をふるっていた。いつまでも浮かれ騒いでいたくなるような楽しいひとときが永遠に続くかのようで、こちらもさっき受け取ったカネがあるものだから、大いにばらまき散在して大騒ぎしたものだが、…しかし、どうも、心に引っ掛かりを感じているのだ。何かが違うと。あるいは、こんな事がいつまでも続くはずがない、という悪い予感のような、ある種の不安が、まるでしこりのように、胸の奥底にいつまでも残り続けるのだ。この浮かれた楽しさの裏には、何かしらの欺瞞があるという気がしてならず、僕たちは何か、大切な事を忘れたふりしたまま、この狂騒の只中で大騒ぎしているだけじゃないのか…そんな暗雲のような一抹の不安を、消したくても消すことができないのだった。


そんなときふと、もう何年も前の古い思い出のような、あの銀行員の顔が、唐突に思い出されたのだった。にこりともせずに、あの寂れた窓口の片隅に腰かけて、微動だにせず周囲の狂騒を白けた視線でみつめるあの銀行員は、そのとき一体何を考えていたのか。そして今も、同じように、何かを見つめているのか。


そもそも、あいつは一体、あの窓口の内側で、一体どんな仕事をしているのだろうか?あの、傲岸不遜な態度で、請われれば、ああして客にカネを渡すのだろうか。いや、もしかすると彼は、もっと全然別の、まるで違う仕事をしていて、我々の想像がまったく届かないようなありとあらゆる物事について、ひたすら考えを巡らせているのではないだろうか?そんな思いが一瞬のうちに、僕の頭全体を覆い隠すくらいの巨大な雲となって、僕をその想像で夢中にさせるのだった。


…結局この混沌とした考えに身も心も囚われた事が、最終的に僕の運命を決定付ける事になる。後日、僕は決断したのであった。「僕も、銀行員になろう」と。そう思うまでに、さほど時間は掛からなかった。あの男と一緒に、あの銀行で働くのだ。具体的に、何をするのかなんて、まるでわからないまま、とにかくあそこで、働くのだ。自分には、それしかないという確信だけがあった。


数日後、ふたたびあの銀行を訪ねたとき、男は先日と同じように窓口に居た。既に不退転の覚悟を決めて決意に満ちた僕の表情を、その男はまったくつまらなさそうな、涼しげなまなざしで見つめていた。