冨井大裕「running composition」


乃木坂の国立新美術館で「アーティスト・ファイル 2015 隣の部屋―日本と韓国の作家たち」を観る。


キ・スルギの展示室を出ると、次の展示室の入口脇に監視員の女性が、真っ直ぐに背筋を伸ばしたお行儀の良い横向きの姿で座っているのが見える。その監視する視線の方向を横切るように展示室に入る。この部屋の展示作家は冨井大裕である。


で、手前の壁に掛かっている「moving」という映像作品の液晶モニターの位置が、その監視員女性の坐っている位置のすぐ脇なので、作品を観るには、監視員のすぐ真横に立ってしまう格好になり、この距離の近さがどうも気になってしまって作品の真正面に行きづらい。美術展とかで、監視員の坐っている場所や視線の先が、自分が観ようとしているものと干渉したり、どうにも気になってしまうような経験は、今回に限らず今まで何度もあり、あまりにもあり過ぎるので一々おぼえておらず、毎回忘れてしまうのだが、少なくとも作品のすぐ脇とかキャプションのすぐ傍とかは、出来れば椅子を置かない方がいいんじゃないのかなとは思う。いや僕は別にいいけど、他人が妙に坐ってる自分に近寄ってくるのは嫌じゃないですか?と思う。まあどっちでもいいけど、ですけど。


などと思いながら展示室中央の床に置かれた作品「running composition」を観る。大き目の木枠が床に置かれていて、その中に、後ろに引いて手を離すとゼンマイで走るタイプのミニカーが、何台か無造作に置かれているというもの。キャプション脇に注意書きがあって「この作品では、お客様お一人につき一回だけ可能です。ミニカーを後ろに引いて手を離して走らせて下さい。」みたいな事が記載されている。


妻が、一台のミニカーを手に取り、書かれているとおりにすると、ミニカーはすーっと走って、木枠の淵にぶつかって止まった。


しかし、なんかもっともらしく注意書きみたいに書かれてるからとくに疑問も感じなさそうな感じもあるが、よく考えると、ミニカーを走らせるのが「お客様お一人につき一回だけ」と制限されなければいけない理由はたぶん、全く見当たらない。たとえば二回、三回と続けてやってしまうと、他のお客様が楽しめないからとか、作品が破損する可能性があるからとか、そういうこれまた如何にももっともらしい理由が思い浮かぶが、本作品にそれらのリスクがあるとは全く思えない。


だからこのルールはたぶん、全然無意味なはずだと思う。とはいえしかし、たまたま目の前に何かのルールがあって、それが無意味かどうかなんていうのはどうでもいいことだ。どうしても一回しかやってはダメなのであれば、別にそれでいい。深い理由を知りたいとはとくに思わない。それが普通だろう。


しかし、今回に限って、僕は目の前のことが、妙に気になった。いや、だからその、「目の前のこと」というのが作品のことなのか何なのかはさておき、であるが、とりあえず僕はその展示室にしばらく留まった。他の鑑賞者を観察するためである。


そのとき僕は自分の姑息さを意識していた。人の態度を見たいのである。いや、違う。人の態度を見たいのではない。人がそれをどう思うか、人が同じものをみてルール通りに従うか、平然と二回三回とミニカーを走らせるかなんて、どうでもいい。では何が気になるのか?というと、とても簡単でシンプルなことが気になる。すなわち、もし二回三回とミニカーを走らせる鑑賞者があらわれたとき、あの監視員の女性は、その鑑賞者を注意するか?という一点である。それだけが気になって気になって、それをどうしても観たいのである。そんなの、自分で試してみればいいじゃないかと言われそうだが、僕は美術館で監視委員の女性に怒られたりするのは、絶対に嫌なのである。だから、誰か他人にそれをしてほしいのである。


しかし、あのミニカーで遊んだら、本当に監視員から怒られたりするのだろうか?もし、ほんとうにそうだとしたら、むしろそれを怒らねばならぬ監視員の肩に掛かる重責たるや、相当のものではないか。「従わないお客様が居たら、お声掛けして止めていただくよう言って下さい。」とか、事前に打ち合わせしているのだろうか?そんなの無理じゃないですか?とか、誰か一人でも発言しないのだろうか。実際、相手にルールを守れと言って、こんなルールに何の意味があるのかと反論されたとき、何を言い返すのだろうか。ルールはルールですから、としか言えないではないか。作家が作品に対して決めたことですから。それが作品を成立させる要素なのですから。それが美術展を成立させるために必要なことですから。そこまで言うのか。


しかし、残念ながらしばらく待ってもルールを破る鑑賞者はあらわれなかったので、僕もあきらめてその場を立ち去った。