歩く


昨日も今日も、何か書こうとしても、面白くなくて、全然、一行か二行書いて、馬鹿馬鹿しくなってしまうような気分で、時間はたっぷりと余裕があるのに、こんなぐだぐだしてるのは実に無駄なことに思えるので、いいや散歩にでも行くか、と思って、小銭入れとかだけ持ってぷらぷらと外に出てあるいた。空は夜の鈍く濁った紺色の曇り空。空気は温く澱んでいる。


歩くのは良い、どのくらい良いかというと、まあごちゃごちゃ考えているよりは、とにかく歩くとか、まあ歩きさえすれば、良いんじゃない?と思えるくらいには、良いのだ。これは不思議な効能だ。というか、これもある意味、人間の限界のひとつであり、同時に、人間に対して常に与えらたオプションであろう。なにしろ、歩くだけで、さっきまで考えていたごちゃごちゃしていた事が、それを考えていた自分という枠組みとセットになって、ぐんぐんと目の前から遠ざかって、単なる過去になってしまうのだ。そこが素晴らしい。もう知るか。どうでもいいや、何の責任もないかんね、今ここにこうして一人で歩いてる、この自分だけが自分だよ、と、誰とも知れぬ過去らしき何者かに話しながら、何にもかまわずどんどんと歩を進めるのだ。しかし、そう甘くはない?どんどん歩を進めても、いずれは元の場所に帰ってこなければいけない?いや、そんな事はないのだ。それはまやかしの言葉なのだ。今どんどん歩いているこの瞬間にしか、自分はいないのである。それだけが現実のはずである。むしろ普段、それを見失っていることの方が駄目なのである。