自分の着ているスーツの、ほとんど黒に見えるような濃緑色に淡く細い縦じまの線が入っていて、細身の上下からあふれ出すかのように真っ白に光った最近流行っている襟がやたらとボリュームのある形のシャツの菱形の模様がうねうねと生地の凹凸に応じてうねっているのが周囲にまではみ出しようになっているのをそのまま見やりつつ、着衣の際には身体のある種の被拘束感を得たくて、その白い光と黒々とした上着との重ねた部分がところどころポイントを抑えるようにして覚醒を促すように自分の身体の奥にまで食い込んできてほしいのだが、僕も最近もうすっかり中年と化して、スーツを着ていたとしてもスーツとは別の生き物・文脈として、僕はひたすらだらしなくそこに存在しているだけで、スーツは単に僕の事情になすすべなく引き摺られているだけなので、それは年齢を重ねることの痛ましさだ。昔はもっと、そうじゃなくて完全に見えなくなるまで自分自身が周囲の風景を透過させるほど薄められたものになれて、そこに無意味に着用されたスーツだけがそのもののみとしてそこに歩かせられているような、自分とは別の事情が目的に向かってひたすら進むだけみたいな、自分を完全な傀儡制御体として投入し、その物理的事情の完全な優先を実現できていたというか、存在はもはや消えうせてたしかな満足だけがそこを歩けていたというか、そういう思いで常に移動したものだが、そのような自分のリモート制御の展開過程を見下ろし続けるには、もはや若いつもりがそうじゃなくなって、さすがにすいぶん歳をとって面白くも無い、暗い話ばかりばかりやたらくわしくなったもんだ。


電車の座席に坐ってぼんやりしていて、乗り換えの駅についたので立ち上がってすたすたと歩き出すと、さっきまで坐っていたのでジャケットの背中に縦数本の皺が入っていて、その背中の皺を自分がそのときかしばらく後になってか、いずれにせよその皺をどうやって確認できたのかは記憶が定かでないのだけど、おそらく鏡に映ったのをたまたま上手い事見たのだとは思うが、なにしろずっと電車の座席に坐ってたんだなという感じの背中の縦皺を、僕は自分の後姿としてそれをおそらく見たはずで、それは縦皺というよりは、朝のまとまった時間を電車の座席に座り込んでいたんだなという指標として自分が人込みにごった返す駅のホームを歩いていたのをもう一人の自分の視線が見やった、という事なのだろうから、おそらく確実に見たからこそ今それをこうして書いているのだが、しかしどこで見たのか?見たとすれば、表参道?でも表参道に、そんな鏡みたいなものがあったっけ?店の窓ガラスに写ったのを見たのかも。でもそんな店のそんな窓ガラスがあったのかどうか。誰かが見たのを見たのかも。そんなはずないけど。あるいは二子玉川三軒茶屋かも。三軒茶屋で見たことの二重橋前あたりへと至る逆流現象が起こったか。知らない駅名を探し、知らない駅名にすがりながら日々を送る。