眠った


十月六日の朝の眠さはほんとうにものすごくて、ある意味凶暴といっていいくらいの激しい眠さだった。なので電車の中でふと気を許したと思ったらそのまま完全に寝てしまい、しばらくして、はっとして目を覚ました。寝てたのはおそらく十分かそこら。しかしそれが、目を覚ましてからびっくりするくらい、ちょっと近年まれにみる深い眠りだった。寝ていたときに、自分が寝ていたことや自分の周囲がちゃんと存在していたことなどが、まるきり欠落してしまっていて、ブラックアウト状態というか、完全に主電源のレベルでオフになっていたかのような、ついさっきまでの十分間前後の時間をぼくは完全に失ってしまっていた。記憶にないというレベルを超えて、その過去十分間が自分の中に事実として認められないとでも言うより他無い感触だった。(だからそれが記憶ないという意味なのかもしれないが、でも実感として、記憶とかより遥かに上位レベルで、無いという感触なのだ。)こんな、気絶するような眠りになると「寝る」という行為自体がほとんど考えるべき対象ではなくなってしまうかもしれない。人間の制御下に眠りもあって、そのあいだも意識は低電力状態で小さく活動を続けているという事ではなく、眠ってしまったら全部おわりで、次に目覚めたときにすべて生産拠点出荷時の状態に戻ってしまっているような感じだ。記憶も記憶の配置や関係性だけは保持されつつ、内実は結局目覚めてからの事後的生成でしかない。記憶がオリジナルでいられるのは、その体験から入眠までのほんの一時期だけなのだ。あとは基本的に睡眠から回復する際の自動修復の産物に過ぎないのだ。そういう状態なので、結局我々の意識のレイヤーは睡眠を超えた長さで展開させることができなくなる。物理的に許容力として足りない。あるいは、ものすごく眠くて眠くて、ああ眠りたい一刻もはやく眠りたいと思っているときというのはある意味おそろしいといえばおそろしい。なんで人間は眠らないとダメなんだろうか。眠いとき、さあこれからいよいよ眠れるぞ、というときに、とても安らかなあるいは嬉しい気持ちになるのはなぜか。疲労をリカバーできるからか。冷たいシーツの上に身体を横たえるときの気持ちよさを想像するからか。目覚めたときの感じが好きなのか。やはり継続性が切断されてしまうことが、人間の本能としてよろこびなのではなかろうか。継続とか持続とかよりはたえずリセットを繰り返す方が人間という生き物の仕様に優しいのかもしれない。