自分の声


この前、道で貧しい身なりの老人に「すいません、二百円くれませんか?」と言われて、一瞬はっとしたものの、すぐに咄嗟に手を左右に振って、あーダメダメと言って断った。そのときの自分のその態度と、あーダメダメと口にしたときの自分の声の意外さ。あぁ自分はこういうとき、そういう言い方で、そういう声色で、そうやって断るんだ。というのを、初めて知った。でもその自分は、もう何年も前からよく知っている、今まで決して短くは無い付き合いの自分だった。でもこういう状況でも、その自分が出てくるとは思わなかったので、そこだけ意外だったのだ。


続いて昨日は、電車で老人に席を譲った。電車ではあまり座席に坐りたくなくて、なぜなら左右に人が居て肩を密着させるのがなんとなく嫌だというのと、老人が来て席を譲るの譲らないのの判断をするのが面倒くさいからだけど、昨日はたまたま坐ったら、すぐに乗り込んできた二人組の老人が僕の席の隣を譲りあってるので、じゃあお二人でどうぞという感じで席を立ってどうぞと言ったらあらすいませんみたいに会釈された。なので、仲良く隣り合った二人が座席に坐ったのを見計らってあらためてその二人の前に仁王立ちになって僕は「すいません、二百円くれませんか?」と言ってみた。その声もやはり長年付き合ってきたよく知っている自分の声だった。…みたいなオチだと恥ずかしいので書かないけど、でもそういうときの自分の声色というか態度というか、もう四十歳も目前になると倫理とか道徳とか良心とか、そんなものは「長年付き合ってきたよく知っている自分の声」の前には何の力もないというのを実感する。少なくとも僕はここ十年くらい「長年付き合ってきたよく知っている自分の声」を頼りに生きてきたのだ。この力。この暴力性。このスピード。この到達力。それが糧だった。人に親切にする?席を譲る?カネをめぐむ?そんな行為の違いにまったく意味は無い。すべては「長年付き合ってきたよく知っている自分の声」がどう判断するかだけの問題だし、その蓄積を超えて人間は行動できないのである。あんたたちなら、二百円なんてハシタガネだろう、それくらい俺にくれたっていいだろう、そう思ってるジイサンと僕とで、そこはわかりあえなかったということか。