写真の横顔


二十年近く前に買って、そのまま読まずに放置しっぱなしだった古本を、この前気まぐれに開いてみて、ぱらぱらとページをめくっていたら、紙片のようなものが挟まっていて、裏返して見ると一枚の写真だった。


白黒写真だが、それほど古びている感じではない。単なる普通の印画紙の写真で、そこには誰とも知らない男性が写っている。たぶん季節は秋か冬くらいで、雨天で、コートを着て傘を挿して、よくわからないがどこかの路地かどこかに佇んで、傘をこころもち後ろに傾けて、上のほうを見上げている。見上げているその横顔を含めた全身が、周囲の風景も含めて縦構図に収まっている。


この写真に写っている男性が誰なのかはまったくわからないが、たぶん有名な人とか名の知られたような、つまり写真に撮られそうな人、ということではないように思えた。どちらかというと、いわゆる有名な人とか名の知られた人の写真一般がもっているある種の雰囲気を何とかして上手く再現しようとしているかのような写真、という感じがする。つまり何がしかの作為というか、演出性のようなものが感じられなくもない。


ただ、それがあからさまというわけでもないのだ。もしかしたら単に、たまたま撮ったスナップショットが妙に決まった感じに見えているだけなのかもしれない、とも思えるところもあるのだ。被写体の男性にはかすかなナルシシズムが感じられなくもないのだが、それでもそれはごくかすかでゆるやかな、むしろ常に張り詰めていなければならない緊張があるときふと途切れたその瞬間こそが写し取られてしまったかのように見えなくもないし、あるいは写りこんでいる周囲のごちゃごちゃした民家の軒先が密集した感じの風景が、何がしかの演出意図を含んでいるものとはまったく思えず、つまりわざわざその場所をロケーションとして選んだ感じではなくて、要するにその場でなぜかたまたまそのように撮られたという感じも濃厚といえば濃厚に感じられはするのだ。


この被写体の男性が誰なのか、この本を買って読んだ人自身だろうか。自分で記念にそこに挟んだのか?でも普通そんなことするか?自分の写真じゃないけど、その本を読んでいて、たまたましおり替わりに、手元にあった誰かの写真をページに挟んだのが、そのまま今まで残っていたのかもしれない?でもそれにしてはその写真は、たまたま手元にあったという感じのしない、どちらかというと誰かに発見されるまで何年でも何十年でも息を潜めてじっと待ち続けているような、きっといつか誰かに、そうやって発見されるだろう、みたいな。そういう細く長い、息の長い、いつまでも火種を残し続ける炭火のような暗く地味な情熱の香りを嗅ぎ取れなくもないような、何か妙にほの暖かい熱がこもっているような、そういう写真のような気がしてならない。勝手な思い込みかもしれないが、しかし何かが匂う。一人暮らしの若い孤独な男の部屋の匂い。本棚にぎっしりと詰まった本の上側にうっすらと積もった埃が白熱灯の熱にゆっくりと焼かれるときの匂い。…冬の初頭の、雨の降る中、コートを羽織って傘を挿して外出する。ほんの近くの、自室そばの民家の軒先まで来て、何を見るでもなく上の方を見上げてみる。見上げているその自分の目線をこそ見たいがための、その姿。その横顔を撮っている。強烈な作為性。その場限りの新鮮なる一撃。そして放擲。激しい投げ出し方。漂う自信と不安。始終付きまとう疑心暗鬼の中でのなけなしの跳躍。何の判定基準も手がかりも無いまま形骸化しかけた挑戦の連続。…まるでいつまでも駅前で、来るかどうかもわからぬ待ち人を待っているみたいな。そういう一見美談っぽいけど普通に考えて相当鬱陶しくて図々しい感じの、ややうとましいような敬遠したいような、そんな不思議な独善的表現性をまとった写真。


その横顔をしげしげと眺める。誰の横顔なのか。まったくわからない。誰にも似てない。いや誰かには似ているのかもしれない。でも似ているかどうかなど、さしあたりあまり問題ではない。とにかく自分とは全然無関係な、その横顔。顔の表情とか、そこから想像される感情とかを思い浮かべ、そのあとで、顔のアウトラインを見て、ずいぶん四角い顔だと思い、着ているコートの時代遅れな鈍重な厚みを見て、しかし傘が雨に濡れている感じや植物や屋根や軒先が雨に濡れて光っている感じは今も昔もかわらず妙に生々しい感じをたたえているのを見る。


人の顔というのは、何度か見ればおぼえて、次に同一人物に会えば、あ、あの人だとわかるものだというのも、考えてみれば不思議なものだ。写真の横顔をいくら見ていても、この人を顔のことが、正直どんな顔なのか、まったく腑に落ちない。まるで見ようによっては横顎に見える、ようなよくわからない意味の無い図像を見ているような気になってくる。横顔、というものが伝えてくれる情報の、思いも寄らぬ情報量の少なさよ。横顔の図像イメージただひとつだけでは、人物の特定などできないだろう。大げさに言えば、それが人物の横顔かどうかすら、断定するには相当心許ないようなものでしかないかもしれない。その横顔からなんとなく匿名性という言葉すら連想してしまった。