二つの作品

ギヨーム・ブラック「遭難者」は、「女っ気なし」と同時期に同場所で撮影されたものだ。それは「遭難者」の冒頭に字幕によって説明される。しかしどちらが先に作られたのか、まではわからない。とはいえ上映の順番が「遭難者」に続けて「女っ気なし」なのだから、ふつうに考えればその通りの時系列的な流れを想像するだろう。

ただし二つの作品は前編と後編のような、あるいは本編とスピンオフのような関係ではなくて、それぞれ別の作品と考えられる。だからそこに時間的な継続性をみる必要はなくて、それぞれ個別に見れば良いだけだ。

ただし一人の俳優が両作品に主演していること、撮影場所が共通することで、それがいかにも地続きの世界で起きたことのようにも感じられる。ヴァンサン・マケーニュは、両作品ともに似たパーソナリティの人物を演じている。さらにどちらの作品にも、ある場面においては同じ服装であらわれたりする。乗っていた自動車が、両作品同じであったかどうかは忘れたけど、似たような車だったはずだ。

「遭難者」に描かれたエピソードのすべてが、「女っ気なし」の世界のなかで、ある日の午後から翌朝にかけて起きた出来事であると考えることは、不可能ではないと思われる。というか、そうではないのかと、必死に記憶の細かいところを思い出したくなる。午後に自転車のパンクを修理する彼に声をかけるエピソードが、あの時間のなかのどこに位置付くことが出来るだろうか、とか、その夜彼がひとりでニンテンドウのゲームをやってるときや、部屋でテレビを見て過ごしているときに、自転車の彼が訪ねてきたのではないかと。

あるいは、「遭難者」が「女っ気なし」の出来事がすべて終わったあとのエピソードだと考えることも出来るだろう。それは「遭難者」で、真夜中に自転車の男性を家に招き入れたヴァンサン・マケーニュが、昔つきあっていたことのある彼女の写真を見せる場面で、彼だけが確認できて映画を観る我々からは見えなかった写真だけど、あれに写っていたのは「女っ気なし」の彼女(あるいはもう一人の…)じゃなかったのだろうか、などと想像したくなるからだ。

ただし「遭難者」の彼は、ずいぶん寂しい人のように感じられて、とにかく孤独のあまり誰でもいいから話し相手を求めている感じではあった。それにくらべると「女っ気なし」の彼は、女への想いは強いけど男たちとはそれほど仲良くする気はなさそうで、そのあたりはちょっと別人っぽいかな‥という気もする。

まあそんなことを考えていても結論はないのだけど、そういうことをつい考えてしまうのだ。というかいつかもう一度観なおしたい。