震度


地震が、自分の心や身体からやる気を奪う。地面が揺れると、胸が高鳴り、不安が喉元までこみあげる。音楽を聴くのをやめて、本を読むのもやめる。音楽を聴いていた時間も、本を読んでいたときの時間も、すぱんと断ち切れてしまう。そして不安なまま事の成り行きを見守るだけになる。


テレビを地震速報の番組に変えたり、携帯電話の画面を見たり、早く家に帰ろうとしたり、予定をキャンセルしたりする。なるべく安全な場所を探し、そこにとどまり、ただ周囲の状況を知ろうとして、あたりをきょろきょろ見回して、あるいは次に何かが起こるかどうかをずっと不安げに待っているだけみたいな状態になる。


地震は、人を完全に受動的で一方的な受身的存在そのもののようにしてしまう。どうしようもない巨大な力として、まずはじめに地震があって、それからその上に、とても不安定で心細い台の上で、か弱き我々が怯えている、みたいな順番になっている。それが、動かし難い事実だと言う。


その事実が、受身で居させられる事への反発心や抵抗心まで根こそぎ奪う。これはとても、不本意な状態だと思うが、しかしそのような力の作用から、常に自由であれる人は稀だ。


たえず恐怖や不安にさらされながら、音楽を楽しんだり、本の世界に没入することは可能か?答えは、可能である。だからそれに早く慣れなければいけない。それを早く習得しなくてはならない。


慣れるというのは、両義的なのだ。それは圧力に屈服し、苦しみを内面化してしまうことでもあるが、しかし同時に圧力に抵抗できるだけの余裕と体力を内側に貯め込むこと事でもある。とにかくまずは慣れる事だ。もちろん判断すべきときには判断をしたり、何かを決断しなければいけない事もあるかもしれないが、それをも含めて、慣れるようにしなければいけない。それで如何なる状況下においても、人間が生きるということを、きちんとやらなければいけない。つまり、音楽を聴いたり本を読んだりするのを、なるべく中断しないようにするということだ。


しかし…もう、なんだかもうこんな状態で居るのも嫌だなあと思う気分も、ないではない。いっその事、どこか別の場所へ行ってしまおうかとも、思わないではない。まあでもまだしばらくはここにいるかな。でも満員電車が、最近ほんとうに苦痛になってきた。俺もお前らも、ここにいる全員少しアタマがおかしくはなってないか?と周囲の人々に言いたくなってくる。