STONE


わざわざ低感度のカメラで周囲を見ているとき、そのカメラ越しに見えた出来事を言葉で書き付けるのなら、それは出来事についてと、低感度のカメラだということについてを、半分ずつ言ってる事になる。


たとえばローリング・ストーンズというバンドなんかは、そういうバンドだと思う。彼らは別に、わざわざ下手に演奏してるわけではないのだけど、でも彼らなりに演奏するので、結果的には、その演奏についてと、それが彼らなりの結果だという事について、半分ずつになるのだ。


そういう、半分ずつの感じというのは、やっぱり重要なことなんじゃないかというのが、今日「自動巻時計の一日」を読み終えて思ったことだ。


わざわざ低感度のカメラで、というところが難しいのだが、それはほかならぬこの私の、貧しくも独自な、でもこの私だけに与えられた宿命としての、その枠内における一回限りの、ということではないように思う。何かもっと、軽い。たかがカメラだ、という感じ。その気になれば別に、何でもいいし、もっと市販の、高いカメラでもかまわないけど、というような、そこはなかなか難しい。なぜストーンズサウンドが、ああいう色合いと肌触りを持っているのかを明確に説明することは不可能であるのと同様、難しい。


突き放された、あっけらかんとした空虚な心地よさというか、乖離の開放感というか、何かそういう…まあ、いまあまり無理やり言おうとしても詰まらないのだが、ちょっと自分の中でここはもう少し大事に持っておきながら他にも読み進めたい。


ちなみに田中小実昌は「自動巻時計の一日」を、ほんとうは、タイトルなしにしたかったらしい。なるほどもしこの話が「タイトルなし」だったら…なんかそれはすごく、いいなあと思った。