道成寺

銀座の観世能楽堂で第二十八回能尚会。番組は仕舞「老松」「春栄」、能「木曽 願書」、狂言「墨塗」、仕舞「難波」「草子洗小町」「江口」「鵜之段」「山姥」「屋島」「芭蕉」、能「道成寺」。(野村萬斎をはじめてみた。父親の万作は何度か観たことあったが。)

能「道成寺」にはおどろいた。前半の乱拍子と呼ばれる二十分にもおよぶパートの、言葉では説明しがたい異様さに、心をうばわれたようになった。能は近年、それなりに回数を観てきたが、このようなものを観るのははじめてだと思った。全体で一時間四十分にもおよんだと思われる上演時間を、最後まで長いものに感じさせなかった。

はじまりからしばらくして、シテが入場してくるのだが、これが例によって驚くべき低速度で、ここまではいつものことなのだが、やがて鋭い声と沈黙、シテが爪先を少し持ち上げ、小鼓の一打が起きて、爪先を下げる。…それを果てしなくくりかえす。シテは舞台上をおそろしく緩慢な速度で移動していくのだが、観ていると、それはもはや移動には見えない。ある奇妙な手続きにしたがった特異な儀式を、館内ぜんたいが、固唾を飲んで観続けているような状況になる。前の席の婆さんが、背もたれから身を起こしてやや前かがみになって、前の席の背もたれを血管の浮き出た痩せた手に力を込めてしっかり握りしめている。その手の指先に加わってる力の意味が、よくわかる気がする。そんな気持ちで観続けるしかないような、何か得体の知れない緊張感にみちた時間なのだ。

このような振り付けが、本当に古来から続いているものなのかどうか、訝しく感じられるほどで、無機的で執拗な反復、間合いの取り方、小鼓による掛け声。低域から中域へと変容する人の肉声の変化が、まるでシンセのツマミをぐーっと回すかのごとく館内に満ちては消えていき、その後ほとんど短い絶叫のような一喝の余韻が響き、どん!と足が踏み鳴らされ、ふたたび静寂、小鼓一打、ふたたび静寂、篳篥の高温が、耳のすぐ傍に響き、同様の手順がひたすらくりかえされ、それらすべてが、なぜかきわめて現代的というか、現代のテンポ感、質感をしっかりとたたえた、極度に突き詰めたミニマリズムの感触に、かぎりなく近いといった印象をもった。(終演後、妻に冗談半分で「まるでダムタイプみたいな…」と言ったら、相手はとくに笑いもせず「そう言われてもあまり違和感ない」と答えた。「現代っていうか、未来的な感じ…、まるでSFみたいな」と。)

観能は、それをいま自分が見ると同時に、何百年も前の人間もまた、それを観ていたという想像を並行させて観ている。その何百年も前にいくつかのバリエーションをもたせている。江戸時代の人が観たそれと、昭和の時代の人が観たそれを想像して、それらの鑑賞者と自分との距離を推し量っている。彼らが観たものが何だったかを、目の前に観ているものから想像している。それは彼らにとって観能がどんなものだったのか、彼らの生活のなかに、観能がどのような位置を占めていたのか、ということになる。

能と能でないものの区分が、ある「取り決め」が作用している時間と場所にあるはずで、その取り決めの境界線に立ち会うのが、観能ということになる。かつての彼らが、その境界線に立ち会ったときに、どのような心の動きを感受していたのか、そこのところを想像している。