映像配信

音楽のライブ配信は、去年からけっこうたくさん利用している。今日はBlue NoteでやったUA菊地成孔の「Cure jazzライブ配信を観ていた。観たがるのは、僕ではなくどちらかというと妻なので、僕は妻のリクエストをオンラインで購入して、配信日になったら一緒に拝聴しているのだが、しかしあらためて購入履歴をみたら、一年半で購入した番組の数におどろいた。

ライブは、会場で観るのが一番だというのは、それは確かに間違いないが、映像で観るのは、それはそれでまた違った面白さなので、こういうご時勢の世の中だからこそ、ライブ配信もこれまでになく活発に行われてはいるのだが、それはそれで活発に利用するというのは、悪くないことのようには思う。なにしろ、そこで演奏されている出来事の全体的な状態を把握したいのであれば、映像というフィルターにいったん通した、一層解像度を下げたものを受け取った方が、わかりやすいのは間違いない。しかもそれを観るこちらは、在宅の身体負荷がほぼない状態だからなおさらだ。逆にいえば、会場でのライブ体験とは、さまざまな悪条件を自らにあえて仕掛けた上で、その条件下で目の前で起こる出来事を体験しようとする試みであるともいえる。目の前でくりひろげられる演奏は、もちろんミキサーからPAを通して整理された音を客席からも聴くのだが、その場にいて、その場で楽器を演奏している人間を見るというのは、そういうことでは割り切れない。生身の私が肉眼と耳をもって、ステージ上で演奏者のパフォーマンスを見て聴くというのは、結局、見て聴いたそれだけを見て聴いている。と書くとわけがわからないが、しかしそういう体験こそがライブ会場で音楽を聴くということなのだ。見て聴いたそれだけということは、それ以外は聴こえないし見えないのだ。わざわざ現場に自分の身体を持ってきたがために、かえって俯瞰性を失い、局所的な判断しかできなくなる。そしてわざわざそのために現場へ行く。いわば認識のためではなく行為の疑似経験として、それを受けとめる試みということか。その結果、ほとんどの内容をとりこぼしてしまったけれども、ほんのわずかないくつかの出来事だけは受け取った。そのわずかな糧だけを求めにいく、あるいはもはや最初からほとんど何も期待しない、そういうものだと知ってる、最初から他人ごととして、あえて距離を保ったままで、その熱狂を観察しに行くのだといったニヒリストもいるだろう。

じつは映画も、映画館で映画を観るというのも、結局は同じことだと思う。映画館、劇場、コンサートホール、ライブハウスといったものの歴史がもたらす意味を、そのコンテンツに付加して味わうかどうか。レストランで食べるかテイクアウトにするか。

映像配信がとりあえず、そういう受け止める側の試みや期待の幅をいったん小さく馴らしてしまうのは否めないのだが、これを一時的なものだと信じて、とりあえず自宅から楽な態度で色々と聴き漁ってみるのは、今後もしばらく続くだろうか。