紫陽花


いま、もう夜中の二時になった。ではその翌日の朝七時、屹然と各花弁の向きを空に対して水平に保って咲いている紫陽花。枝から分かれた花すべてが、その方向のルールを厳格に守っている。咲いているというのは、人間から見たら静止しているだけのように見えるだろうが、花の内部にいるとそんな優雅なものではない。とてつもない勢いで各機関が伝令と確認を繰り返し、微調整と報告が絶え間なく行われ、集中制御塔にいる艦長の捺印を待つ行列が長く伸びている。紫陽花の咲いているその姿の、まるですべて丹念に微調整されたアンテナの角度のように、それぞれの花の見事な横水平の線を成して佇んでいるのも、そのような各機関の秩序付けられ組織だった業務の成果にほかならない。役目をまっとうするために全部が咲いている。いや咲いていることの目的を、花が与えられているのだ。だから彼らはもはや野生とはいえない。組織花、とでもいうべき存在である。都内で平均的な生活を営める程度の給与も支給されている彼ら紫陽花は、朝の七時過ぎにはもう業務稼動しており、一部の狂いもなく首元を固定させ、花をささえている。紫陽花とは、そういう緒力を指し示す呼称である。こうして毎年毎年、判で捺したように咲くのが仕事だ。安定供給。リスクマネジメントを学んだ彼らの、その長年の仕事を称する呼称。それが紫陽花でもある。いつものとおりにという、その時間の中で改めて思い浮かんで、そこでまた輪郭をあらわすあるイメージのひとまとまり。あのときのあのふくらみと色の滲み。雨の飛沫に打たれ暗闇に溶け出した過去の記憶の、それら一切の堆積のなか何事もないかのように同じことを繰り返し同じ過ちを経てこうして目前にあらわれるその営み全て。それら全てを引き受ける覚悟がある。まだ成長過程ではあるが、これからもっともっと成長していけるだろう。その野心と歓びに満ち溢れている。今年は最高だが、今年だけがすべてじゃない。開放系の未来に向かっている。何もかもが真っ白なほど明るい。