望遠


日曜日。三本の水筒を用意して、白赤の各ワインと熱い紅茶をそれぞれに入れ、それらとピクニックシートやらハンカチやら色々と詰めたリュックサックを背負って出掛ける。小一時間歩けば水元公園に着く。途中でサンドイッチや惣菜も買う。中川に掛かる巨大な橋を渡り、住宅街を抜けると、空にぎざぎざと刺さるかのようにメタセコイア群の頂上部が見え始める。水元公園は広大である。都内最大級らしい。フィールド内に、人々が無数にいる。私たちの、あらかじめ定めらた枠内で、ここにこうしていること。紛争も話し合いも、公園から始めようじゃないですか。巨大な池を挟んだ向こう岸には、埼玉県のみさと公園とそこに集まる人々が、遠景としてまるで蜃気楼のように浮かび上がっている。初夏のようなすばらしい天気、目に見えない細かな、あらゆる要素が交歓し合って、小刻みに振動する、すばらしい光の渦、それが目に見えるすべてである。妻の双眼鏡を借りて、最初は頭上を見上げて木々に止まる鳥を見ていたのだが、そのうち視線を水平に戻して、向こう岸の景色、みさと公園の人々を見始めた。そしたら、たしか以前にも書いたが、双眼鏡で見える景色というのが、ほんとうにものすごいのだ。丸くくりぬかれて、物質感を欠落させたかのような、光の粒子そのもののレベルから一挙に拡大したかのような、ほとんどこの世のものとは思えない視覚イメージである。顔の表情、衣服にあたる光、巨大なスポットライトに照らされた人間の一挙手一頭みたいな、信じられないほど細かい部分までクリアに見えてしまっているのに、見られている向こう側では、こちらの視線に一切気づいて無い。この強力な非対称性である。その強烈さに圧倒されて、何を見ようとしているわけでもないのだが、ただ見えるものだけを、ひたすら狼狽しつつ見続けている。父親と小さな子供、犬、凧揚げして走る子、横座りしてるお母さん、そんなのをただおろおろと見ている。するとふいに、巨大な人間の姿が、視界を遮って出し抜けにあらわれる。池のこちら側の岸沿いを歩いている人が、近・中景として視界に侵入してきたのだ。そういう手前のものが、突如として視界に入ってくるという、ただそれだけのことが、しかしこれほどの驚きだとは。白い上着を着た女性。ただ白い。その、光をいっぱいに含みこんで輝くような白である。それが、すーっと移動する。髪をなびかせ、腕を動かして、衣服の裾もはためかせて、それはほとんど、光そのものが人のかたちをしているようにしか見えない。光と影が移動する。ほとんど奇跡のように、僕のすぐ目の前を移動する。そのあまりの美しさ、いや、そのあまりの、あえて言うならば現実らしさ、とでも云いたくなるような印象に、息を呑み、何もいえなくなり、心底、感動する。まったく知らなかった。望遠レンズの向こう側に、これほどの世界があるとは。


過去の映画に、望遠レンズに魅了されてしまったかのような登場人物というのは、よく出てくる。物語の中で、ただひたすらじっとレンズを覗いているだけの主人公とか。僕は彼らが、何を見て何に魅了されていたのかを、今日やっと理解したような気がした。しかし、少なくとも彼らが見ていたイメージは、今日、僕が見たものほど圧倒的な美しさではなかったと思う。でも、望遠レンズの世界を知る人にとって、この美しさは最初から自明で、ずっと前からの常識なのかもしれない。そんなことは、既に充分にわかられていることなのかもしれない。集められた光で再構成された、まるでこの世界の精巧な偽物みたいな、圧倒的な人工性。そんなのを今さら知ったのか?などと言われるのかもしれない。ああ、そうだ、僕は今日はじめて知った。でも実際、今まで誰も教えてくれなかったぜ?なんで誰も教えてくれなかったのか。そのことに文句を言いたいくらいだ。これほどすごいなら、毎週この公園に来て、双眼鏡で朝から晩まで、ずっとどこか遠くを見ていたいくらいだ。しかし、それをやったら、それはそれで、なかなか反社会的な行為に近付くというか、そういう疑いを掛けられかねないのかもしれないが。いや、でもそんなことないはず。というか、でかいカメラとか三脚付き双眼鏡をセットしている人は公園内にたくさんいるわけだし、そういう人々の一員になればいいのだ。一員になるというのは、彼らと同じグループに属するとかそういう意味ではなくて、単に彼らと同じ趣味をもった、そういう公園内の登場人物として振舞えば良いのだ。対人間社会的にはその振る舞いでやり過ごしつつ、しかしほんとうに、肉や野菜を挟んだ携帯食を時折摘みながら、水筒内の液体を傾けながら、拡大された光をゆっくりと見ているだけで、ほかにもう何もいらない。これで充分なので、じっとそれだけをして、今後は暮らしていこう。


読むつもりで本も何冊か持参したのだけれども、結局ぜんぜん読まなかった。水筒はたちまちのうちに二本が空になった。紅茶だけ、ずいぶん余った。ヘミングウェイ日はまた昇る」のマス釣り場面とか、短編集などで、屋外での飲酒シーンは多く、そういうときヘミングウェイ的登場人物の呑むワインはほぼ必ずよく冷えた白ワインであり、辛口で鮮烈で切れ味良く火打石というか少し錆びの風味を含むようなもので、そればっかりなのだがそれで上等というかそういうものこそが美味いのだが、今日の白はそれを彷彿させるというか本日においては充分な仕事を成し遂げてくれた一品でありじつに良かった。単に太陽の光の下で飲めばたいていのものは何でも美味く感じるというだけのことかもしれないが。それにしてもヘミングウェイ的登場人物の飲酒はもの凄い、というか異常である。昔はボトルそのものが小さかったのか?いや、そんなはずはあるまい。ハーフサイズの話をしているのか?いや、そんなはずはあるまい。ではどういうことなのか、と心底不思議に思うほど、彼らは次々と瓶を空にしていくのだ。