コンビニ店員、図書館員、駅員

地元や会社近くのコンビニなど、くりかえし利用するコンビニの店員のことを、どんな外見のどんな人物であると、いまはっきり思い浮かべることはできない。おぼえている人もいることはいる。というか、何年も前からいる人だとさすがに顔までおぼえている。店による、ただし外見の記憶はなく人物としておぼえてない人だとしても、その場で会計しているときにそこで短くやり取りするときの声や言い方から、店ごとにここはこの人というのは、頭の片隅にはある。対面で接客されてはいるのだが、ほとんど電話応答と同程度のコミュニケーション量ということだろうと思う。十年以上前にやってた業務では、全国各地のお客さんとずいぶんたくさん電話で話して、そんなことが五年か六年続いたけど、あの人らと実際に対面したのは、たったの一度だけだった。だから初対面で見る皆さんの風貌と、それまで記憶にある声とのギャップがすごくて、いつまでも違和感が抜けず、結局最後までそれは解消されなかった。つまり実際の顔とそれまでの自分が勝手につくりあげていた顔のイメージとで、あの人たちの外見は僕の中に二重化されてしまって、その後最終的にはそれまでの自分がつくったイメージのほうが現実に勝ってしまっていた。

とはいえ、おぼえているなどというのは所詮そんなものではないか。コンビニ店員さんの顔をおぼえているなんて、たぶんうそだろう。たぶん誰の顔もおぼえてはいない。おぼえていると思うなら、それは自分のなかで比較的あらたに作られたばかりの固有のイメージにすぎないのだろう。

なぜそんなことを書いているのかというと、ここ数年、たぶん隔週に一度、週末ほぼ定期的に通ってる図書館に今日も行って、ふと思ったのだけど、僕は図書館の人たちの顔を、まったく記憶してないということに気づいたから。大きな図書館で、働いてる人も少なくはなくて、貸出と返却の各窓口にいる人やバックヤードで動いてる人や、棚のあいだを動き回ってる人など、たくさんいるけど、彼ら彼女らが、ここでずっと長く働いている人で、これまで何度もお世話になってる人なのか、行くたびに人が変わっているのか、それすらわからないというか、人の印象としてほとんど記憶にないのだ。あらためて考えると不思議だ。

図書館という場所は、ややこしい客もわりと多いし、対応に苦慮しつつ応答してる場面もごくたまに見かけるけど、図書館スタッフという存在の人の気配の無さというのは不思議だ。あるいは自分が、なぜかそこに人を感じないよう自らフィルタをかけているのだろうか。それは自分にとって、たとえば駅員さんみたいな存在に近いのだろうか。駅員という存在も顔や外見的な雰囲気をおぼえられない。毎朝同じ時間の同じ場所に通っていて、駅員の数だって多いだろけど、さすがに何度か同じ顔を見ていておかしくないだろうとも思うが、顔を記憶したことのある駅員というのは、これまで一人もいない。