多磨


 多磨の東京外語大学にて「セザンヌ―自然哲学としての芸術」を聴講する。中央線から、武蔵境駅から、西武多摩川線という路線に乗り換えて、多磨という駅で降りる。多磨霊園のあって、そこまで少し歩いてみる、松の木の大きな、大きな霊園で、あまり時間がないので、一区画だけ見て、目的地に急ぐ。14:00から始まり、18:00過ぎまでの長丁場。冷房がものすごくて、会場を出てからもしばらく手が真っ白で熱が戻らないほどであったが、お話は面白かった、岡崎乾二郎はすごいという、今更何を、という感想を感じた。リズムという言葉が多く出てきたが、リズムってそもそもなんだろうと思って、フィジカルなグルーヴとしてのリズムとか、もっと「量子的」なリズムとか…正直、あまりピンと来なかったところもあるが、そもそもそれ以前に、リズム以前に、やっぱり「声」だなあと、聴いてる側にしてみれば思う。岡崎乾二郎はすごい、というとき、その割合として、何割かは、あの声がすごいというのが入っている。岡崎乾二郎トークを聴いたのは何度目かだが、今日あらためて、岡崎乾二郎はすごいと思い、そして、その声がすばらしいと思った、たぶん、声がすばらしいというとき、僕にいわせれば、それで充分に、リズムが成立していることになる。複合させたりエフェクトをかけるまでもなく、出し抜けの一発目で、それはなりたつ。逆に、成り立たなければ、どれだけ何をイコライジングしても、無駄である。だから結局は、最初の一発勝負なところはあるのではないかなと思う。セザンヌの作品とは、時間を含んでいて、それを読み込んでいくよりほかない「小説的」な成り立ちをしているのだとしても、最初の一発目で勝負はついていて、そこで作品としては成り立っていて、あとはいくらでも、永遠に語れる、泥沼のような空間が観るものの目前に広がるばかりなのかなと思った。だとすれば、とらえるべきは、最初の一発の、ある瞬間なのかなとも思い、でも何ともよくわからない。リズムとなると、わかる人にはわかって、わからない人にはわからない、というのが、言いやすくなるというところはある。そこは難しいところ。

 僕はセザンヌをはじめて「これってなんかすごいかも。」と思ったのは、90年代半ばの、上野の都美術館でやってた、忘れたけど何とかいう展覧会で、ふらふらと作品を観ているなかで、セザンヌの過激としかいいようのない風景画が二点展示されていたのを観たのが最初で、それは、いわゆる衝撃、ということでもないのだけど、ああ、これはなんかすごい。いわゆる、「かっこいい」ということが、丸出しになっているということで、これはたぶん、只事じゃないわ、と思ったのが最初だ。でも別にそれ以降、セザンヌに夢中になったわけではなく、でもそこではっきりと、セザンヌはちょっと、大人しくない…と感じたというのが、いまだに記憶に残っていて、それはある意味、忘れた方がいいような気もするし、でも、まさにその瞬間を、リアルに思い出したい気もするという、何とも複雑な記憶ではある。

 セザンヌという作品が観るものにもたらす強い緊張、その神経症的な迫力というものと、とはいえ、絵画であることの安心、いざとなればいつでも逃れられることの安定感というのはあって、その狭間をどう折り合いをつけるのかという話でもあるのだと思う。セザンヌについて語るというのは、一定のところまできたら、ひとまず忘れても良いのだということで、それを求めてがんばるということでもある。しかし、なぜ観ていて気持ちが良いのに、それを早く終わらせてしまいたいと思うのか。快楽をひたすら引き伸ばしたいと思うわけではなく、早く凍結させてしまいたいと思う欲望はいったいなんなのか。それを快楽というのか何というのか、いずれにせよ人はなかなか臆病なものだからで、満員電車に乗っている身としてはなかなか、そういうのには、びびるものがある。

 新宿で夕食。こうして夕食というのも、快楽をなるべく凍結させずにもちこたえるための訓練でもあるのかなあと思う。でもこれも、悪い意味での慣れに至れば、それは駄目なんだろうとも思う。

 しかしおいしいものは食べた方が良い。そして今日の私は誕生日である。