水泳に出かける。買い物する。帰ってきてルーセル「アフリカの印象」を読む。二十分くらい寝る。また読む。食事の支度。その後、また「アフリカの印象」を読む。また眠たくなる。一時間くらい寝る。起きて、また読む。読みはじめて二週間で、ようやく半分くらい。このまま、読み続けるのかどうなのか、迷いながら、読み方を探り続けながら、とにかくまだ、読むことは読む。まあたしかに、普段の読書において、読み進む力が意味へ導かれようとする牽引力で生じているというのがよくわかる。「アフリカの印象」には、その先を読み続けたいと思わせるものが何もないというか、とにかく徹底して説明しかない。しかもそれぞれの細部を一々説明するが、結局全体がどのようになっているのか、各要素がどのように連結しているのか、要するに何なのか?の説明は欠落しているので、たとえば奇妙な機械の構造と動作についても、あれだけ言葉が尽くされているにも関わらず、頭の中で想像してみるしかないようなことになっている。かなり丁寧に読んで、実際にどんな機械なのかを絵に描いてみようと思うくらいの気持ちで読んでもそうである。ちなみに本の表紙には、「アフリカの印象」の舞台がパリで初演されたときのポスターが掲載されていて、そこには本文に登場するいくつかのシーンがイラストになっているが、これはかなり、かっこいい絵なのだが、しかし、とてもじゃないけど、読んでこのイメージは出てこないわ、と思うというか、こう簡単に描かれると、むしろつまらない、もっとかなり面白いものの筈だが。とも思う。ということは、イメージが図像に結実しない状態で、なんとなく不快な、いらいらした思いで読み進めながらも、ぽんとイメージを出されると、こんなはずではないという違和感を感じて、また怒るという、どっちにしても落ち着けない情況にさせられるということである。で、それはそれで、そういう変な穴にハマッた感じというか、泥に足を取られながら進む感じというのは、何となく、悪くないものでもある。さすがにここまで時間かかっていると、もう受身の姿勢がかえって悪くなくて、不愉快の快適さに淫しているというか、後ろ向きであることに前向きな意欲が出てくると言うか、そういう病にとどまり続けたい感じになってくる。