目が覚めると、薄暗かった。家の中も暗く、外も暗い。日のささない一日らしかった。肌寒かった。横になったまま薄い掛け物を身体に掛けなおして、枕元を手探りして、昨晩眠るまで読んでいた本が伏せてあるのを拾って、その続きを読み始めた。開いたページも朝の光をほとんど反射せずに薄暗い色をして、中の活字がぼやけて沈んでいた。一時間ばかりそうして本を読んでいた。起き上がってコーヒーを淹れた。マグカップの中が、影のように底なしの暗さで、目の前に来て急に白い湯気がゆらめいた。部屋全体が薄暗いが、照明を点けようとは思わず、このままじっとしている方が良かった。このように薄暗い日が好きなのだと思った。薄暗さが、もののように纏い付く感じだった。雨も降ったりやんだりしたらしいが、部屋の中にいるぶんには静かで外の様子に気がつかないほど、全体が薄暗すぎる日中だった。ひきつづき本を読んでいたが、読むというのも面倒なことではあった。集中し続けることなど、面倒にきまっている。そもそも、はじめから本を読みたいと思っているわけではなく、昨日まで知らなかったことをを知りたいと思っているわけでもなかった。新しいことを知りたいから、本を読んでいる訳ではなくて、薄暗い箇所に光を当てて、内訳や構造をみたいからということでもなく、読んでいると、そこにはじめて、自分の興味があるのを発見することがあって、それで仕方がなく、というか、しいて言えばそうかもしれない。しかしそれとも違う。はっきりしていることとしては、とにかく読んでみるまで、何が出てくるかはわからないので、そこは何かが出てくるまで、ある程度根気よく、待つことは待つ。そこだけは、なるべく緊張して待つ。しかしある意味それだけで、それ以外は何の努力もなければ誠実さもない。ほんのかすかなものを拾うためだけに、かなりの時間を使って、大量の時間を浪費している。それが、読むということだ。毎回、出来事が起きるたび、それが、私の時間の無駄という、そこに自分特有の経験の記憶、自分の過去というか、固有性があって、読んで感じられた出来事とは、その私の上での出来事であることを痛感する。他人が何と言おうが、自分がそのように感じてしまって、自分にとっての過去にそのような事件がおきてしまったことを、自分なりに確認する。なぜ、そういうことになってしまったのか?それが、この作品ということそのものだったのか?これを読んで、今、そのようなことになってしまった自分とは、一体何なのか?それを、またさらに本を読みながら考えて探り続けるということでもある。なぜ自分は、こうして今までもこれからも、ずっとひたすらに、間違い続けているのか?ということでもある。こうしてひたすら、間違い続けていること自体に、偏差としての自分の特長みたいなものがあらわれているとして、しかしやがて、ゆっくりとしたスピードでいつかはそれも是正されていって、小さなでこぼこがやがて削られていき、こうして余剰は、少しずつ消えていくし、不純な部分はろ過されて、本が読まれたということだけ残っているような、かつて二人が暮らしていた、いまは誰もいない薄暗い部屋になるのかとも思う。