マタギ


図書館で、なんとなく柳田國男の「山の人生」を手にとって読んでいた。最初のほうに、八郎潟の八郎の話が出てくるけれども、それで、ぼんやりと子供の頃に読んだ「八郎」という絵本を思い出した。ああ、あったなあ。あの本、子供の頃、あれ、嫌いだったな、と思った。「八郎」と、あの「三コ」。どちらも、嫌いだった。蛇蝎のごとく嫌ったと云っても良い。あの二冊は、本棚のどこにしまうか、いつも考えたものだ。本棚で、それらと隣り合う本が可哀想なので、できるだけ端の方の、どうでもいいような本に紛れて置いておくようにしているくらいだった。


何十年ぶりに思い出して、しかしその場で、スマホで検索してしまうと、そんな本くらい、平気で情報として出てきてしまうからすごい。子供の思い出とか、そんなんじゃないね。昨日の出来事と変わらない。情報によれば、「八郎」も「三コ」も、作者は斎藤隆介。そうか「ベロ出しチョンマ」もこの作者か。まあ、自己犠牲的なやつで、などというと酷い説明だが、そういう、いわば僕らの世代の、昔の絵本だな。


要するに滝平二郎の絵が、子供の頃は、すごく嫌いだったのだ。絵というか版画だ。こういう感じが、理屈じゃなくて嫌だった。おかげで、木版的なもの全般が、嫌いだったかもしれない。なんなの?この、如何にもなヘタウマ的な味わいを楽しもうみたいな、朴訥さ、愚鈍さ、大雑把さ、鷹揚さを、無条件、無批判に、美徳と決め付けて何の不安もなく平然としていられるような図太さ、図々しさは、こんなの、ぜったいに耐えられないな、と、当時の自分の気持ちを、今の自分が代弁してあげるとすれば、大体そんな感じだろう。今でも、その感覚はまだ身体の中に残っているような気もするが、でも、今はもう、嫌いとか好きとか、そういう視点では受け取ることができなくなっている。というか「八郎」も「三コ」も、今読んだらけっこういいんじゃないかという気がする。絵も含めてそう思う。それはすでに、あらかじめ動作するようになっている別の感覚機能が、そう感じさせるのだろう。


というか「山の人生」である。ある意味、むしろいきなりこれを、小学生のときから読めば良かったのだ。ぜったいに、読めなかったと思うけど。すべての語句が、少なくとも小学生には、何の理解にも至らないだろうし、あまりにも、難しすぎる。たぶんニュアンス的にさえ理解することさえ出来ないと思われるのは、「**の人生」が、この世界の下に複数あり、自分と「秋田の山村のマタギ」が、共に存在するというイメージを具体的に掴む、というか、マタギの存在すること、その気配を感じる、というところだ。きっと、どうしてもわからない。それこそを、わかりたいのだが。