内田百けん「冥途」書き出しだけでほんとうに素晴らしい。一行目から、まったく説明をしようという気がない。説明しようとするって事は、じつはそこにいないということを隠そうとすることだ。そのとき、その本心は、必ず見えてしまうものだ。言葉というのは、そういう伝達力は異様に強い。いや、そういう伝達力だけで成立するのが、言葉なのだ。しかし、内田百けん「冥途」。これはほんとうに、おそらく書いてる人は、これを書いていながら、ほんとうに、そこにいるのではないかというような、そう思わざるをえないような文章だ。だからかえって、すべての文が異なることを言っていて、それらが当たり前のように集まって束ねてある。味も素っ気もなく、単に書いて束ねてあるだけ。まるで、壷の中に入っている複雑な形をした、おいしそうなお肉が、見事に、壷の内壁のどこにも接することなく、すっときれいに入ったまま、そのまま安定していて、最上の状態で熟成しているかのような、そんな文章だ。

高い、大きな、暗い土手が、何処から何処へ行くのか解らない、静かに、冷たく、夜の中を走っている。その土手の中に、小屋仕掛けの一ぜんめし屋が一軒あった。カンテラの光りが土手の黒い腹にうるんだ様な暈を浮かしている。私は、一ぜんめし屋の白ら白らした腰掛に、腰を掛けていた。何も食ってはいなかった。ただ何となく、人のなつかしさが身に沁むような心持でいた。卓子の上にはなんにも乗っていない。淋しい板の光りが私の顔を冷たくする。