二十代の頃は約十年煙草を吸っていて、やめてから今まででもう十年以上経つと思うが、さすがにもう煙草は吸いたいと思わない。しかし当時の、煙草が吸いたくてたまらないときの焦燥感というか、肺と胃袋の奥の方と脳のすべてが煙草を欲しているときの感じというのは、十年経った今でも、かなり生々しい記憶として残っているし、何時間がぶりに一服したときの何物にも代えがたい至福感というのも、未だに忘れることができない。吉田健一のエッセーで、あまりにもばかばかしくて笑ってしまうのだけれども、しかし、これがまさに、真にリアルなのだ。ほんとうに、この通りとしか思えない。

何日も煙草がなかった後で吸う煙草程いいものはない。例えば、長い日照りで茶色になっていた荒地に雨が降り、草木が緑を取り戻して、小鳥が囀りながら枝から枝へ飛び廻り、黄菊、白菊が草の中に色を散らすようなものである。或は、広々と横たわっている海の上をボオトを漕いで行き、晴れていて風がないので、白い雲が海に映っているのに気が付いたときに似ている。そして貧血した頭には血が戻り、視界がはっきりして、息をするのが楽になり、体中が深い満足と静寂に包まれる。(吉田健一・三文紳士より「乞食時代」)