レッチェン・パーラトの「バタフライ」イントロを頭の中で何度も反芻しているうちに、ああハンコックの旋律だな、じつに新主流派だな、これがまさに、新主流派。との思いでいっぱいになって、それは勿論僕のいいかげんな思いつきだが、とにかくそんな適当な理由で、新主流派で検索したら、「ウェイン・ショーターの部屋」というウェブサイトを見つけて、これが、ものすごくおもしろいので、そのままひたすら読むことになってしまう。ウェイン・ショーターについて徹底的に考察したサイトだが、やはりひとつのテーマに対して、このくらいの分量と密度で検討が積み重ねられていると、もの凄い読み応えと説得力がある。おそらくウェイン・ショーターに関してこれだけの質をもつテキストは、ウェブや書籍を通じても、他にはどこにもないのではなかろうか(よく知らずに言ってますが)。一人のミュージシャンの仕事を丹念に聴き込み、解析していくことで、いわゆるジャズの音楽的変遷、バップからモード、新主流派、そしてコルトレーンマイルス・デイビスの仕事、といったところにまで大きく話の射程が広がっていくわけで、最終的には50年代末〜70年代のジャズが最も過激に変化していった時期全般を中心とした、テーマごと、あるいはアルバム作品ごとの、世間一般に流通している通り一遍の物語にきわめて細かいレベルで突っ込みを入れまくった、ある一個人のきわめて鋭く独自でおもしろい考察、といった感じで、読んでいていくつも驚きや発見があって、たいへん興奮させられた。


ジャズ・メッセンジャーズの一時期のアルバムや、マイルスの一時期のアルバムが、実質的にはショーターのリーダーアルバムなのだという指摘とか、すごい驚きだ。正直、これを読んで以降の、60年代マイルスの音源を聴くときの感触が、もはや自分の中で変わってしまうだろう。いわゆる決定的な文章に触れてしまった衝撃のあと、あらためて作品に触れるとき、その強い影響から逃れられなくなっている自分を意識せざるを得ないような、面白い批評を読んでごく稀に経験するあの感じだ。メッセンジャーズの諸作品などは未聴なのだが、すぐにでも聴きたくなる。それにショーターとコルトレーンとのあいだには相互に強い影響関係があって、コルトレーンの60年代前半のインパルス諸作品こそ、これぞ「新主流派」的なものの完成であって、それにはショーターの存在が極めて重要だったという話(新主流派って、何だろう?)など、かなり驚きの説だが、たしかに凄く面白い(つまり強烈なリアリティというか、確かな手触りを感じさせる論旨で)読んでいて大喜びしてしまう。


サイト全体かなりボリュームがあるので、まだ全部読めてないけど、このサイトはしばらく読み耽ることになりそうだ。