最近は、書くのが面倒くさいと思う日が全体の半分かそれ以上である。というか、はっきり言えば、昔から書くのが面倒くさくないことなど、ないのである。そもそも書く前に、書くのが面倒くさくないと思う人は、この世に存在するのだろうか?書く前に、それが面倒くさくない、と思う人、というのは、つまり、朝起きて、これから歯を磨いて着替えて会社に行くのが面倒くさくない、そういう人と一緒である。たとえば、水曜日の夜の七時から飲み会の約束があって、あー今週水曜飲み会だなあ、と思っていて、それで水曜日の夜になってしまって、さあこれから行くか、今から50分発の快速で行けばジャストだな、と思いながら、会社を出て、エスカレーターを降りながら、あーあ、面倒くさいなあ。と思わないということだ。そう思わない人と一緒ということである。あるいは、ツタヤに寄ってDVDを借りてきました。家に帰ってきて、その袋からDVDを出して、テレビの電源を入れて盤面をDVDプレイヤーのトレイに置いて再生ボタンを押して、本編が始まるまで少し待っていて、テレビの光が暗い部屋をぼんやりと青白く照らしていているときに、ああ、これからここで、二時間もこれを観ながら、こうしているのは面倒くさいなあと、思わないのと一緒のことである。美術館に来てチケット売り場で、一般二枚です、と告げて金を支払って、入口は向かって右手でございます、会場は二階と地下一階でございます、常設展をご覧になる際は再度チケットをご提示くださいませ、とか言われて、それを受け取るときの、ああやれやれ、これからフロア上から下まで全部か、常設は飛ばしたいけど結局全部観るんだよね、とか思って、それを面倒くさいと思わないのと一緒のことだ。メニューはこちらがドリンクのメニューで、本日グラスはこちらでご用意いたしております。お料理はこちらが本日のおすすめでございます。また後ほどお伺いしに参ります、と言われて、さて組立てをどうやって、何を飲んで何をどの順番で取るのが正解だろうかとメニューを両手で持って顔を近づけて思いを巡らせながら、それを面倒くさいと思わないのと一緒のことである。


結局、書き始めてしばらくすると、たまに面白いときがあるので、それが面白い部分ではあるが、書く前に、書き始めたら面白いかもしれないからとは、なかなか思えない。そんなことがやる気につながるものでもないのだ。だから、ほぼいつも面倒くさい。で、書き始めてしばらくして、面白くなってくればそれでいいけど、実際のところ、書いてもつまらないことがほとんどなので、そういうときは、ほんとうに情けなくも虚しい気分になるし、ああ僕はこの世で一番の愚か者である、との自覚にさいなまれるし、色々と良くないことばかりなので、トータルで考えると、まるで良いことがない、と云っても過言ではない。しかも、たかがブログだし。たかがブログで、そんなばかなことを言ってるのも、ほとんどもの凄いばかだ。ばかが計り知れないレベルに達している。


まあ、そんなことはどうでもいい。本題に入るが、先ほど、たまたまテレビを付けたらタランティーノの「パルプ・フィクション」がやっていた。BSやCSで「パルプ・フィクション」はよく見かける映画プログラムである。もうたぶん五、六回は見たかもしれない。もちろん全編ではなくて、たまたま途中から見始めてしばらく見るという感じになる。で、ここ何回か、おそらく数年間のうちで三回か四回は見ていると思うけど、僕がたまたまテレビを付けると、必ずユマ・サーマンとトラボルタがステージでツイストを披露するシーンの手前から始まる。それで、そのシーンを見て、直後にユマ・サーマンがヘロインで死にかけるシーンになって…というシーンまで見る。で、そのあとチャンネルを変えるかテレビを消すかして、またしばらくしてテレビを付けると、今度はほぼラスト近くの、トラボルタとサミュエル・L・ジャクソンが車を洗ってTシャツに着替えて朝飯を食いに行って、そこでティム・ロスたちを遭遇する場面になる。これも必ずで、過去に数回同じパターンなのだ。つまり僕は「パルプ・フィクション」を過去数回見ているが、ブルース・ウィリスをここ数年、一度もみかけてないのだ。今日もそうだったことで、つまり僕の記憶の中では「パルプ・フィクション」にブルース・ウィリスは出演してないというか、存在してないような感じがするというか。


まあ、そんなことはかなりどうでもいい。「パルプ・フィクション」を途中で止めたらドラマ「軍師 官兵衛」がやっていて、官兵衛役の岡田准一、奥さんは中谷美紀である。岡田准一が息子を織田信長に人質に出そうと中谷美紀に相談すると、中谷は、絶対に嫌です、と反対するのである。そのとき、中谷美紀は、毅然とした態度と表情で、しかし大きな瞳には涙がいっぱいに溜まっているのである。ああ…こういう演技。。なんて素晴らしい、見事な演技なのかと思って、ほんとうに面倒くさい思いに満たされてしまう。もっと、役者にも色々な人がいていいと思うのだがどうなのか。・・・安土桃山時代なんて、ほとんどろくなもんじゃないというか、ヒトなんてものは苔や水草と同等な時代なんだから、むしろ、そういう安らぎを感じたいというか、中谷美紀では、どう見てもぜったいに安土桃山時代の苔ではないし、その片鱗も感じられないというか。


さて、「パルプ・フィクション」でトラボルタが銃を誤射して色々とまずい情況になり、それを解決するべくハーヴェイ・カイテル演じるウルフいう名前の「掃除屋」が派遣される。ハーヴェイ・カイテルは一時間四十分の時間制限内で、二人に車を掃除させて、服を着替えさせるだけなのだが、最終的には周囲も、そしてこの映画を観ている我々も、このハーヴェイ・カイテルのことを、なんだかやたらと仕事の出来る、とてつもなく優秀で凄いヒトのように思ってしまうが、実際のところどうなのか。でもたぶん世の中的にはそういう人こそが物事をまとめる力量のある人材という価値になるらしく、僕なんかは会社員生活をやっていて、他人に会う機会もたまにあるけど、ぜひ一度くらいこういう優秀なヒトに出会ってみたいと常々思っているけど、というか自分がそういう胡散臭い人間ならよかったけど、残念ながらそのうつわではなかったが、ちなみに、胡散臭いやつというのは、中小企業界隈には多くて、その意味ではまあ、つまらなくはないけど、でも胡散臭いやつの九割は、まったく素人芸人並につまらないやつで、驚きの欠片も感じさせてくれないもので、最初から性格にも資質にも顔にも似合わないことを大根芝居でやってるようなヤツばかりで、むしろそういう連中となるべく同じ空気を吸わないように生きていくことを考えないといけないんだな、と感じさせてくれるようなことばかりである。そうじゃなくて、もっと僕の想像している良いテイストなテキトーな感じの人というのがいるのだけど、なかなか現実にはいなくて、とくに最近の世の中では、そういうタイプは仮にいても相当肩身の狭い思いをしないといけないのかもしれないが。


でも、つまらないねえ。テレビなんてちっとも面白くない。前にも書いたけど、テレビに出てくる京都の有名な寺の坊さんって、どいつもこいつも、なぜあれほど悪人顔なのか?と思うのと似ているかもしれないけど、テレビに映ってる相撲の中継で、土俵の向こう側に座ってる観客の連中って、着飾った中年女や汚いおっさんとか、如何にもなバラバラな感じの一連のあの人たちって、一度一人一人、きちんと職務質問した方がいいのではないかと思う。ちょっとでもおかしかったらすぐ拘留して家宅捜査でもいい。ちゃんと調べたら、ほんとうに、嫌になってしまうような話がいっぱい出てくるのではないか。もう、うんざりだ、バカバカしくて相撲中継なんてやってられないよと、誰もが思うはずだ。


でも今日って、本当に三連休だったのだろうか。本当に三日も休んだっけ?


ウチなんか、昨日も今日も夕食がサンドウィッチだったのだが、サンドウィッチというのは馬鹿にしたものではなくて、これはかなりおいしいのだ。いったい、パンにバターを塗って、マスタードを塗って、思い思いに肉・魚介類・野菜・玉子、などの具材を載せて、塩や胡椒や各種スパイス類で味を調えて、手で掴んでそのまま口に運んで、それが美味くないわけがないではないか。まったくちょっと想像すればわかることだろうに、なぜそれほど疑り深いのかと思う。


明日からまた読み始める本の候補をいくつか選んだ。でも春になったら、もう暖かくて本なんか読んでる場合じゃないかも。へらへら笑いながらごーごーと走る電車の中で、窓の外を見ているだけかもしれないが大丈夫か。窓の外で卒業式がやっているのが、さーっと流れて行くのを、あー、とか言いながら横目で見ながら…。あ、テレビゲームがしたい!!そう思った。古いゲームがしたい。会社の隣にいるSさんは、前の日にゲームして、翌日そのゲームの続きをすると、ゲームの主人公が前日とはまるで別の、とんでもない場所にいて、まったくわけのわからない境遇に追い込まれていることがあって、それは日中に四歳の息子が勝手に続きをやっているかららしいが、とにかくゲーム世界の中の自分は毎日二重人格というか、はっと気付くとそれまで自分が何をしてたのかさっぱりわからないという情況からゲームの続きを始めるしかないという毎日だそうだ。そういう話を聞くと僕は思わず、もっと昔のゲームの方が良かったなあと思ってしまう。