何かが軋む音がして、地震かも、と思って目を覚ましたら、妻も起きて、地震?というので、そうだな、と言ったら、まるでその一連の会話に対する返事のように、ぐらぐらと盛大に揺れ出した。食器がぶつかり合う、鐘の音のような音が聴こえてきて、しばらく続いた。五時なので、それなりに眠くて、できれば大したことでなく済んでほしいと思っていて、ニュースも見たいが、テレビのボタンを押すこともできずに、しばらくしたら、もういいだろうと思って、そのまま寝る体勢に戻った。その後、八時か九時に起きた。


横光利一の「蠅」を読む。途中で、ああ、これ読んだことあるわ!と思い出した。たぶん中学か高校の教科書に載っていたのだ。読み進めていくうちに、クライマックスの部分を急に思い出した。わー、懐かしいと急に思った。「蠅」は面白いけど、これはやや狙いすぎというか、今読んでもさすがに、まあこういう感じね、と思うような小説だとは思う。さすがに、小説の試みも以後、様々に為されてきた歴史があるので、ここに来て今、こういうのをいきなり新鮮に読むのは難しい。


「機械」これは、面白い。おー!面白い!!と思った。これは、所謂傑作とか歴史体名作とか、そういう類ではなくて、単にひたすら面白い小片。という感想に尽きるだろう。今、この作品を読んで、その内容に笑わない人がいるだろうか?そのくらい「機械」は面白い。というか、主人公が面白すぎる。筒井康隆の未発表の初期作品です、とか言われたら、信じてしまいそうだ。バカバカしさの飽和状態がある種のカタルシスを生んで、ガッツリした満足感のある印象を残す。


「機械」。これは、登場人物の面白さに尽きると思う。心理描写がひたすら織り上げられていって、誰が誰を信じていいのか、誰が誰を疑っているのかみたいな、ややこしい絡みの部分は、ほとんど重要には思われない。何しろ主人公の、存在を支えてくれるイデオロギー不在というのか、目先の値を読み込んで適切な行動を取ろうとするだけのきわめて無意志的、悲感情的な態度が徹底していて、まずはそこに、本作品を読むだけの理由になりうる磁力が、未だに働いているように思われる。


梶井基次郎の「檸檬」、久々に読む。これも昔、高校の教科書に載っていて、そのときはじめて読んで以来だ。当時は、浅はかな高校生の自分にとって、梶井基次郎というのは、なんとも自己陶酔的というか自分世界内で幸せになりすぎな、ただのイマジネーション坊やにしか思わなかったのだが、でも今読むとさすがにいいですね。檸檬を売ってる八百屋の様子を描写したところなど、本当に素晴らしい。


ブリヤ・サヴァラン「美味礼賛」も読み始める。…これは…すごい。なんだこの本は?という感じ。でもまだおそらく全体の六分の一くらい。ゆっくり行きましょう。