先週、風景写真のジグソーパズルをやって、今日も一時間ばかりやった。…最近、遠くの緑や街並みを見ているとき、どうもジグソーパズルに見えてくることがある。ジグソーパズルというのは正直、なかなか面白いところがある。視覚的な知覚に、何か小さな支障をきたしてしまっている。現実の景色を見るときの、ここまででOKのしきい値がくるってしまっている気がする。
新宿で「ハーグ派展」。観たのは昨日だが。久々に、絵画を観たという満足感があった。そして、ジグソーパズルの影響も少しあったかもしれないが、画面のある領域にのせられた色面、空をあらわす分厚い乳白色の絵の具の層。海の色、空の色としての青。影としての褐色、黒。絵の具によって、その物質によって、いったんそのように空間を抑えて安定させ、場をつなぎとめて、画面を成り立たせる、それだから、ようやく観ていて安心できる、というようなことを考えていた。
たとえば、自分の家から図書館まで行くために、とぼとぼと荒川沿いを歩いているとき、いつもそうだが、近景に視界を遮蔽するモノが無くて、自分の周囲にひたすら景色がひろがるばかりの情況には、いつも軽くショックを受ける。足元の地面、土手の下り坂、その向こうに広がる雑木林、川岸、水面、映り込む景色と空、向こう岸、そのさらに先の芝生と土手、その向こうの街並み、住宅と建物。さらにその向こう…。どこまでも広がっていて、とにかく巨大で、果てがない。視界の限界として、ある一定以上の距離から先のものは見えなくなってしまうが、それも見えなくなるというよりも、空気の層が密になりグレーっぽい淡色に紛れて霞んでいるようにして見えているので、そこに情報が無いという状態ではない。だから、基本的には無限に景色があるような現れ方になっている。
それらの、目に見えるさまざまなものの真上に、一様に空が蔽っている。すべてが一枚の屋根の下の出来事だが、広がりが無限なので、そのときに軽い恐怖さえ感じる。高所恐怖症的な感覚に近い。あまりの広大な空間の中で、自分を支える取っ掛かりの無さが知覚されて、そのことへの不安が生まれる。数十メートルかもう少し先の川に、いきなり自分が落ちてしまうことは決してないのに、それもありうるような自分の場所への頼りなさが生まれる。
このような、とりとめのないのが現実的な空間のはずだが、一つ一つの物象に気持ちをつなぎ止めるようにしてみている限り、不安からは自由でいられるだけだ。絵画も、基本的にはそのようにして出来ていて、絵を観ているというよりは、その各部分を観ているから、本質的不安から逃れて安心できるのだ。
ジグソーパズルにも、似たようなことを感じさせるところがある。見えないほどの遠景というのは存在しない。全部見えているのだ。このグレー一色の1ピースとして存在する。近景も遠景もかんぜんに等価で、おなじサイズの集積にすぎない。しかし、ずたずたのばらばらなのだ。絶望的な不安からスタートだ。しかしきっかけを発見して、場の確保と安定にいたる。
あと、船というモティーフに、あらためてすごく興味をもった。「ハーグ派展」での船の絵に多かったのは、干潮で水のなくなってしまった地面に船だけが残されてしまったような情景で、虚しく船底を晒して、どうすることもできないような状態で、その場にとどまっている船たちである。
船というのは、水に浮かんでいるにせよ、陸上に打ち上げられているにせよ、自分の力で進んでいけるような感じに欠けていて、情況に翻弄されているだけというか、上下左右に揺さぶられながら可能な範囲で進むなり方向転換するなりするだけの、細長いお碗というか紡錘形の何かで、その上の部分には甲板とかマストとか、別のレベルの景色が広がっていて、全体的に面白いのだ。ターナーなんかの、驚異的自然の表現みたいな、そういう目的に利用するに便利だ。しかし、ハーグ派の船はまるで翻弄されておらず、置物のようにじっとしているだけというのは面白い。
船はやはり、前世紀以前の乗り物としては代表的だし。絵画のモティーフとしての飛行機や車では、そのような乗り物の本格的な登場が二十世紀以降なので、なかなか絵画のモティーフにはならないというか、絵画の問題がすでに別のことになってしまったから、というところだ。しかし、昔から僕は思っているのだが、飛行機や車の絵はもっと見てみたい。