もうよくおぼえていない。何しろ、二十年以上も前のことなのだから…。みたいな言い方を、堂々と出来る年齢になっていることに今更気付く。よく考えたら、こういう言い方に、昔から憧れていたところがあった。小説なんかによくある、「今からもう十五年以上前のことだが、そのとき僕はこんな人間で、当時の町の景色はこんな感じで…。」みたいな語りの、そういうのは、どうかと思うけど、それもまあ、ある意味そうだし、それほどわかりやすくなくても、とりあえず語り手が、語ってる時点で既に、その時点から過去二十年以上の厚みをもってるというのは、やっぱりすごいもので、それは、少なくとも二十代の人間には絶対に無理で、三十代でも難しいだろう。別に、四十代の人間のすべてが、それまでの時間の堆積のなかで稀有な体験を重ねているわけではまったくなくて、むしろありきたりな、まったく何の変哲もない、ありふれた時間でしかないのだが、でもそれだからこそ、「何しろ、二十年以上も前のことなのだから…。」という言い方が、ものすごく有効なのだ。とはいえ、結局すごい言葉というのは、あまりそういう実在的な時間の堆積のようなものには関係なくて、すごい言葉は今いきなり生まれて飛び出てきて、その時点でちゃんとすごいもので、その意味で、言葉そのものは、効果と無関係に、その成り立ちはひじょうに単純な物質の化合品に過ぎないとも言える。でもそういうレベルの話ではなくて、単に「もうよくおぼえていないのよ。何しろ、二十年以上も前のことだしね。」と言う台詞の実感の問題としては、そういうのは、あるじゃないですか、という話。というか、そもそも、太宰治の「津軽」を久々にぱらぱらと読んでいたら、そういう箇所があって、これは僕は、読むのが高校生のとき以来なので、今やとっくに太宰治の没年も越えて、今の自分がまだ生きているのは当然ながら、まだ三十後半の太宰が「何しろ二十年ちかく前のことであるから、記憶も薄くなってはっきりしないが、…」とか書いていたので、そのときちょっと、ふいに立ちくらみのようにして、遠近の定位置を見失った、あれ、ここはどこでそこから何を見ているのか…という気持ちになりかけてしまったので。