一昨日妻の実家に行って、今日自分の実家に行って、これで年始行事すべて終わり。明日一日休んで、明後日からもう平常稼動である。まあ正月休みなんて大体いつもそうで、ゆっくりしてる時間がありあまってるわけでは無い、ということはもうわかっているので、むしろ自他共に早く平常時に戻りましょうかという気持ちでもある。


たまたま本屋で、ある学習参考書の表紙を見かけて、それは僕が中学三年生のときに使っていた参考書の表紙と一緒だということに気付いた、というか、その表紙を、思い出した。中学三年生のときに使っていた参考書の表紙が、約三十年経った今でも同じデザインで目の前に販売していることへの驚きと、自分の記憶の中に、中学三年生のときに使っていた参考書の表紙のイメージが、まだ保管されていることへの驚きとの二つがあって、とくに後者の驚きが強く尾を引いて、表紙の図柄を見ている自分の視線が、細かい部分を一々追うたびに、とてつもなく深い部分から、どどどどどっと一気に何かが浮上してくるような、できれば間違いであってほしいとどこかで思っているのに、結果的にはそれが正解であることを認めざるを得ないような感じ。でもやはり、本来起こってはいけない出来事が起きてしまったような感じで、一瞬気が遠くなった。


横光利一旅愁」。この上下巻あわせて1000ページにも及びかつ未完に終わるという長編小説が書かれた原動力として、作者になぜこのような問題意識が持続されたのか?という興味、その面白さで読んでいる。当初、とくに上巻で、登場人物たちがだらだらと議論するか独りで観念を積み重ねるばかりのように思えて面白さも必然性も感じなくて…という印象を、前に書いたかもしれないけど、しかしなぜ自分は、この作品をやたらと悪く言ってばかりいたのか?この長い話において、今までの出来事ややり取り一つ一つの意味というか、下巻も既に半分を越えたあたりにまで来て、ここで振り返ってみたときに自分の背後にひろがっている、これまで通り過ぎてきた数々のエピソードの、それらすべての記憶によって織り成されている景観というのは、これはやはりけっこう凄くて、やっぱりこの小説、ものすごく重要な作品ではないか、という気持ちが強まっている。


それはやはり下巻になって、主人公の矢代が千鶴子の兄や友人の公爵と関係を持ち始めるあたりからが俄然面白くなってきたから、というのはある。上巻では対話形式の議論が多いのだが、下巻では三人以上での議論が多くなってきて、語られる内容と共にその各人の様子も含めて、読んでいてすごくしっくりとくるような実のある情景が展開されているように感じられる。それぞれの登場人物の、その人にぐっと近づいたときの細かい表情やニュアンスがよくわかる。そうなると、何を言ってるか、その意見がどうかという以前に、言ってることの内実が感じられる。矢代と千鶴子だって、たしかにパリで相当長い時間、二人だけの時間を過ごしてきたはずなのに、今ここに来て、このぐずぐずした展開というのは、これはどうなのか?すごいことだと思うのだが、でも現段階における千鶴子の、この女性の感じも、これだけ長く読んできて、今ようやくはじめて、その女性としての佇まいというか、雰囲気、香りのようなものまで感じられるかのようで、それはヨーロッパ滞在中にはまったくありえなかったものである。ありえるはずが無い。この、前半の出来事がすべて夢かまぼろしのようであったという感触が、この作品では強烈なのだ。だから余計に、日本に来てからの人々の織り成す空気や空間がはっきりと現実的なものとしてあって、この時間と空間の違いに、この小説がこうでなければならない理由の強さのようなものとして感じられるところはある。それは書き手が狙ってそう書いたということではなく、それどころか進み方としては、おそらくかなり行き当たりばったりなのだと思うが、それゆえに今こうして、前半と後半に異なる時間が流れることが可能になる。


というのを、今日になって強く感じた理由は、東野と真紀子の乗った船が日本に到着するのを、矢代たちが横浜の港で待つシーンを読んで、この箇所が素晴らしかったのが原因。おそらくここ、「旅愁」全体のなかでもハイライトというか、作品全体がぐっと凝縮されてその一瞬に全部映りこんでいるかのような場面かもしれない。