一月は、とくに後半、食事だの旅行だのと、やたらと予定を入れていたのだが、今日ここに来て、全部キャンセルした。どうしても、しょうがない、のっぴきならない理由がある。様々なことが、色々と、動くときには動く。それでもあらゆることが、何かの意味や予兆のように感じられもする。でも金だけ払って食材を捨てるわけにはいかないので、別の日に一人で食べに行くように再予約した。野鳥よ。私は自分の身に何が起ころうとも、きちんと約束の日に来てお前を食べるよ。そのとき私の気持ちがどうなのか、感情がどうかなど、一切気にする事は無い。私はちゃんと時間通りに来て、そのあと少ししてから、お前はきれいにこの世から姿を消すのだ。


「船上の友」とは、横光「旅愁」のような、船旅のあいだだけの、そのときその場でだけ成立する、階級も年齢性別も越えた交友関係のことだが、僕は船旅は勿論したことがないけど、似たような経験と言ったら、二十六か七のときに行った合宿免許で泊まった旅館かな、と思う。あのときの何週間か、あそこにいたみんな、ほんとうに信じられないくらい、仲良くなって、毎日一緒に遊んで、一緒にテレビ見たりゲームしたり、海辺まで散歩したり、だらだらといつまでもあそんだ。でも皆、免許取って、一人また一人と、どんどん去っていき、去り際には当然のように連絡先など交換するのだが、それでも結局その後は全然誰とも、交際が続くわけではないのだ。いや、じつは何人かは多少、そのあとも会ったりもしたけど、でもやっぱりそれは、不自然なことなのだ。なぜなら「船上の友」なのだから。あの場所でたまたま居合わせたことだけが根拠だったのだから。わざわざ連絡取って、別の場所で会おうだなんて、甘い考えだった。きっとそれをお互いに感じたはず。おそらく皆本来、階級も年齢性別も、目的も行く先も違った。だからそれはそれで、もう終わりのはずだったのだ。いやー、でもいいか断っておくぞ実際、今になってあの頃をなつかしいだなんて、そう思っているわけではまったくないのだ。むしろあれから二十年近く経過したたった今、自分がいるこのときこそ、結局は船の上だな、と思うような感じだ。僕はまったく、誰とでも仲良く、たくさんの友と、うまくよろしくやっている。でもやはり、ここは船の上だな、と感じることもある。最近たまに、そう思ったりもすると。