地図にしたがう

美容師のMさんはグーグルマップなどスマホアプリの地図を見るのが苦手とのことで、そういうので目的地を目指しても絶対に道に迷うのだそうな。あれだと、どこが目的地でどれが自分なのか、見方がわからないとのこと。いや…そういう人って、たまにいるよね。でも、ちょっと僕には、意味がわからないけど…と言ったら、Mさん怒る。

但しMさんは、車の免許は持ってる人で、カーナビを見て運転する場合、一つ手前の道を左折してしまうとかの間違いはあっても、地図そのものがわからないようなことは無いらしい。あくまでも自分自身がスマホの地図を見ながら歩くときだけ、根本的な混乱に陥るらしい。「だって自分も動いてるじゃん。」とのこと。スマホを持っている自分自身が動いてしまうなら、何がどうだかわからないじゃないかと。

まあ百歩譲れば言いたいことはわかる。自動車に乗ってカーナビを見ているというのは、自分が地図を見ながら自動車を操作しているのだから、自分と地図と操作対象がしっかりと分別されている。しかし自分が手元のスマホを見ながらだと、地図にもとづいて動かす操作対象が自分なので、操作する側とされる側が重なっている。だから混乱するのだと。

たぶん受動態として生きる感覚が、薄いのだろうか…と思った。操作されているときの手放しの感覚を、そういうものだと思ったり、それを享楽に思ったりしたことが、あまりないのかなあ…と想像する。

何かが出来るようになるとは、つまり適度に自分を手放し、制御外におく技術、ということかもしれない。ある瞬間その瞬間だけは、自身を物体として見放しておく。それで後に巡ってくる時間に、予想された自分自身が返ってくるのをあらためてキャッチする。そのくりかえしで、自分を自分の意志+物理運動の結果の利用によって適切に動かす。そのコツをつかむということなのかもしれない。

偉そうな事を書いてるけど、自分だって相当ドンくさい方の人間のはずだから、その感覚をよくわかっているわけではないに違いない。わかってないことをわかってないがゆえに、疑問にさえ思ってないに違いない。