ヘンリー・ミラーの(石原慎太郎のような?)勃起の、感覚。


無意味に勃起している、この、あてどなさ。文字通り、死ぬしかないところから。


勃起しているときの感覚、性欲の昂り?欲情の根拠?その欲望の熱さとか不満足感とか、それだとわかりやすいけど、そんなことではなくて実のところ、現実はもっと物質的で、男性固有の身体、その感覚としての、ペニスの根元が支えている重みの感覚。クレーンの支柱の部分の感じ。一人で組体操をするバカバカしさ。


ミラーはひたすら喋り散らす。気に入った娼婦について。(以下すべて「北回帰線」より)

そしてもう一度、彼女はあの大きな茂みのようなものに花を咲かせ、魔法を使った。それは、ぼくにとっても、一つの独立の存在になりはじめていた--。ジェルメーヌがあり、そして彼女のあの薔薇の茂みがある。ぼくは、この両者を別々に好きになり、そして両者を一緒に好きになった。


勃起したペニスに風があたる冷ややかさと、熱をもった重みとの両方を感じ続けている。交接の相手の、一方に女があり、もう一方に性器がある。それを別々に考えたいということ。欲望を満たしたい、などという言葉は欺瞞で、本当はこの渾然としたものを分割したい。そうしなければならない。

しかし、肝心なのは「男」だ。男!彼女が切望するものは、それだった。彼女をくすぐり、彼女を恍惚にもだえさせることのできるもの、彼女の薔薇の茂みを両手でつかみ、うれしそうに、誇らしげに、いばって、結合の感じ、生命の感じを味わいながら、こすらせることのできるものを股のあいだに持っている男。おのれの両手がつかまえうる下のほうの部分--それだけが彼女にとっては人生を経験する唯一の場所なのだ。


彼女と、薔薇の茂みと、股のあいだ、こすらせることのできる、両手がつかまえうる、下の方の部分、そして彼女の人生。この分割の手続きの執拗さ。部分の積み重ね。ばらばらだった頃の世界。断片のままでいてくれ。


勃起のあてどなさ、支柱の重み。風の冷たさ。でも風も、今だけだ。なら、この支柱の重みは、どうだろうか。愚かだ。くだらないことだ。この虚しさを、手放したくないのだ。勃起している。腹が減っている。幸福だ。未来を信じられるのだ。

シャンゼリゼエを歩きながら自分のまったくすばらしい健康のことを考えつづけた。ぼくが「健康」と言うとき、じつはそれはオプティミズムを意味する。いやしがたいほど楽天的なのだ!ぼくは、まだ十九世紀に片足つっこんでいるのである。ぼくは、大多数のアメリカ人のように、いささか遅れているのだ。カールは、この楽天主義を嫌悪する。「俺が食事の話をしさえすれば」と彼は言う。「かならずおまえはうれしそうに、にこにこしやがる!」たしかにその通りだ。食事のことだけを考える。--次の食事のこと--それだけで、僕は若返るのだ。食事!それは何事かが進行することを意味する--数時間みっちり働くこと、場合によっては一つの創造を意味する。それを否定しはしない。ぼくには健康がある。りっぱな、たくましい、動物的な健康がある。ぼくと未来とのあいだに介在するただ一つのものは食事だ。つぎの食事だ。