親密


「未明の闘争」をはじめて読んだとき、ブンとピルル、という名前の付け方がすばらしいと思った。ブンとピルル。すごくいい名前だ。


考えるという行為。たとえば、何年も何十年も、考えている人を撮影して、そのフィルムを何十倍速かで再生したら、子供のような無いものねだりをする様子に見えたらどうか。あるいは、泣き喚いたり怒り狂ってるように見えたとしたらどうか。つまり考えるという行為がむしろ、激怒を何倍にも引き伸ばした状態にして、それを何度もくりかえして、その感情の中に留まろうとすることだとしたら。


愛する者を失って、私は自分の明るさや快活さや楽観性の全部の元がなくなり、今後もう二度と朝の明るい目覚めはこないし、楽しく笑うこともない人間だ。


ベンチで膝枕をされて真横になった景色を見ている。それは、今流れているものを見ている。そして過去の記憶のだらだらと溢れていくのを見ている。


人間がもし認知症になったら、過去さえもなくなるのか。しかし認知症になってもすべてが消えるわけではないのだが、あれとあれが確実に消えたということだけはわかり、それがあまりにも悲しいことだし、辛い。


誰かと会うときなど、この年になるとさすがに、その場所に対して親密さをつくりに行くという気持ちが少しだけはある。共同制作で、その場をつくろうということで、そしてたぶんお互いにその場でつくられた親密さは、終りの時間が来たらその場に置いて帰宅するつもりで最初からそこに集まる。その場がとてもいい時間だったとしても、よっぽどのことがないかぎりは、当初の思いの通りそれを置いて帰ることがほとんどだ。しかし帰宅途中やその翌日など、その場所に置いてきたそれについて思い出して、やっぱりあれは、なかなか良かったじゃないか、すごくよい出来だったのじゃないかと、なつかしさやせつない寂しさと共に思い出す。でもだからと言って、やっぱり持ち帰ればよかったとは思わないのだ。


若いときだと決してそんなことはなく、その場でつくってその場限りで持ち帰らずに去るだなんて、そんなばかばかしいことは一切しない。そもそも、何をつくる気も無いし何を共同作業する気も一切なく、湯水のように他人と会って平然としているし、翌日になって関係の網の目のなかにいたり、また別の関係に絡んだりして、自分や他人のいくら傷つこうがまるで想像範囲の外だ。だから馬鹿だと言うのだしだから若いヤツが嫌いなのだが、今こうしておっかなびっくりな態度でいると、もう既に自分が杖を突いて歩いているじいさんに近いのだと思う。