アレクサンダー大王


 北千住の東京芸術センターの映画館はいつも空いている。座席に座って、前の広いところに濡れた傘を開いて床に置いて乾かしてもいいかなと思うくらいだが、さすがにそれはしない。アンゲロプロスアレクサンダー大王」。ゆったりと二十世紀の幕開けから始まる。馬がいい。きれい。その場に大人しく、頭部を上下させたり、足踏みしたり後ずさったり。主に乗っかられると、分かっているかのように、ぱかぱか歩き出す。馬はきれいだ。アレクサンダー大王はほとんど何も物言わず、表情も無く、ほとんど白痴的。捕虜となった貴族達の無抵抗さ、始終、詩を詠ったりしているだけの様子も印象深い。というか出てくる人間全部が、景色の中に散らばった点のようで、本作はとくにその印象が強い。また音楽も相変わらず素晴らしくて、音楽だけで盛り上がってしまう。アレクサンダー大王が登場するときのテーマソング。あの唸り声だけ延々ループさせたらかっこいい。いくつかのシーンにはやや、それはわかりやすすぎでは・・・と感じてしまった部分もあり、最後の、核心に空白しかないということのややもっともらしい感じもどうなのかとも思われたが、それはそれ、あれほど大掛かりな仕掛けで寓話的にやってる以上、そういうものかもしれない。少年が逃げ延びてくれて良かった。情報の伝達というか、何かが残っていくという、若い世代への交代というか、とにかく今、ここはもう、にっちもさっちもいかず、どうしようもなくて、これはおそらくもう、我々すべてが死滅しない限りは、ほぼ絶望的だけど、我々の想像の外からあらわれる、明日以降の人々は、それとはまた、全然違うかもしれない、という希望の持ち方。

 帰ってから、DVDのジャームッシュ「デッドマン」を久々に観る。この映画に出てくるインディアンの男は、かつてアメリカ大陸からヨーロッパに流れ着き、そこでウィリアム・ブレイクを知る。その後ふたたびアメリカに戻って、部族たちと暮らし、偶然に主人公と出会い、その名前を聞いて、彼をウィリアム・ブレイク本人とみなし、一緒に旅をすることになる。でも、そんなことはありえない、こんな出会いは絶対にありえない、と思ってしまうのは、「アレクサンダー大王」を観たあとだから余計にそう思うのか。しかしそれにしても、「デッドマン」を観ているときの幸福さはいったい何なのか。最後の方の、ほとんど意識を失いかけていて、ふっと気絶して、またふっと意識が戻って、そのとき見たものが映っていて、またふっと気絶して、気付くと自分が船に寝かせられていて、またふっと気絶して、というあの一連のコマ切れのラストは何度観ても惹かれるものがある。こんな行き当たりばったりに、こんな格好になって、いい加減な装束で、最後に死んでしまうだなんて、これなら気楽で面白くていいなあということか。