そこで


図書館で借りた山城むつみ小林秀雄とその戦争の時」を読んでいた。


『黒河は、黒龍江(アムール河)を隔ててソ連領ヴラゴヴェンシチェンスクと対峙する都市だ。一九四五年八月には、ソ連軍がこの街から侵攻して来る。しかし、一九三八年、十一月初旬(前夜は「素晴らしい満月」だったというから九日だろうか)の時点で小林の前にあったのは「平和な国境風景」だった。「見たところ表面は」というような留保を付けようとして小林は頭を振る。「スキーをしてゐる者も材木を運んでゐる者も、たつた今は心の底から平和に違ひない。」そして、朝日にキラキラする河面を見詰めながら思うのだ。「どんなに戦の予想に頭を膨らした人もほんとうに剣をとって戦ふまでは平和たらざるを得ない。人間は、戦ふ直前に何か知らない一線を飛び越える」。』(86〜87頁)


戦争の本質として、偶然自らの死が決まるような、個人の判断がありえないという状況下で、それでも個人の責任において、主体において判断をする。(そして死ぬ。あるいは絞首刑。あるいは生き残る。)戦争の、気の滅入るような感じとは、まさにこれだ。上記の文章が、それをはっきりと表現していて、まさに気が滅入る。ほんとうに、ぱっと粉のように散って死んでしまうほうがよっぽどマシだ。


どんなに戦いの情勢が極まっても、「ほんとうに剣をとって戦ふまでは平和たらざるを得ない」ことこそが、おそろしいのだ。だからこそだ。


「それ」を認識できるかどうかもおぼつかないのだ。こわい、神様のような、何かおそろしいものに、刺し貫かれる。たぶん、みんな、刺し貫かれているのだ。今の若い人たちも、皆そうなのだ。「存在論的・郵便的」も、再度そのように読まないか。


そのように、生きられないかだ。すでにもう管理職ではないか。今はまだマシだ。なぜなら忙しいから。これだけ忙しいと、考えるヒマもない。でも、このあともし仮にヒマになってきたら、さすがに考えるんじゃないか。


最近は、猫も高齢化しているのだそうだ。生き物が全部高齢化しているなら、戦争も可能性としては残るのか。ぱーっとまとめて粉のように散るのと、ずるずると抗生物質に浸かってベッドに横たわるのと。


神様かな。そうなるとやっぱり神様のことが。