血は嫌いなので、健康診断で採血されるときは決して患部を見ないし、外科手術や出産などの映像など直視できないし、刃物で怪我するなんて、想像しただけで震え上がる。そんな自分でも、出刃包丁を買って魚を三枚におろしたいと考えるのだから奇妙な気もするが、魚を捌くことは、やりたいのだ。しかし青魚の頭を落としたときに俎板に残る血液の濃さにも、けっこう来るものがある。

包丁を使うときの快感というものがある。包丁に限らず、カッターで紙を切るときも、のこぎりで木を切るときも同じかもしれないが、使い方を間違えれば自らを傷つけるような道具を上手く使って、目的をかなえることには独特の快感がある。それを上手くやり遂げていることに対する自足の快感でもあるが、多くは手を通じて伝わってくる感触的快感にあると思われる。自足的快感の度合は危険回避の緊張感と隣り合わせであることでより高まるだろうが、作業が進むにつれて慣れが緊張を解き、次第に薄れていくので、やがて気分の多くを占めるのが作業の感触的快感だけになっていくだろう。

そんなときにこそ事故は起こりやすい。良くも悪くもリラックスした状態なので、刃先への注意力と緊張はぎりぎりまで後退している。一定以上の技術をすでに持っているならそれでベストのコンディションだろうが、そうでなければ怪我のリスクは高い。おそらくそんな過程にて、半月ばかり前に僕は指を切った。前にも書いたけど、切った瞬間は、軽傷にしか思われない。痛みがほとんどない。しかし出血が続き、いつまで経ってもおさまらない。事前に想像して怯えていた事態が現実になったというのに、怪我の痛みや精神的ショックはほぼ皆無なことが不思議なくらいで、やりっぱなしの作業が出血のため続けられないことを、厄介で面倒に思うばかりだ。

数日後、あるお店の店主にそんなことを話してたら、その店主はもう十年以上、包丁で怪我をしたことは無いとのことだったが「たしかに若いころは、何度かやりますよね、そうそう、全然痛くないんですよ、よく切れる包丁だとそうなんです、でも血が止まらないから、こっちは忙しいから、そんなときはもう、無理やりティッシュで抑えて、上からセロテープぐるぐるに巻いたりしてね、それで続けたり、そんなものですよ…」だそうな。

傷みを感じ、それに苦しむというのは、想像するだけでほんとうにおそろしいことだが、実際にそうなったときは、たぶん想像してたのと違う。戦争映画を観ているとき、そんなことを思いもする。明治のはじめくらいまでは、武士階級家系の父親が子供に切腹の作法を教えるとか何とか、…それはつまり想像的な痛みと実際の痛みとのギャップまできちんと想像して内面化せよとの教えだろうか。サバやアジをおろすかのごとく、自分で自分をささっと捌くみたいな。…まあ無理だな。