萩月図襖


サントリー美術館で鈴木其一展を観る。様式が優先されるのだろうから、画面内に整合の取れた空間をはじめから予期していないのだが、そこに月があるなら、月が出ているのだから、その空間は夜である。


「萩月図襖」。白地の屏風に、月が描かれている。しかしこんな夜があるだろうか。


萩のすがたが、もしそこが夜なら、おそらくこのようにあらわれるだろう、というように、白地を背景に、抑制的な色価でとらえられている。


夜であれば暗闇のはずであって、完全に見えないのが初期状態だとして、ある部分が、だんだんあらわれるか、だんだん消えるか、目の前の様相としては、おそらくそのようにまだらで部分的なもののはずで、しかし全体が確実に存在してもいる、その確かさはあるので、描かれていることはすべて描かれていて、それは夜のなかに、完全に存在しているのだと、いま見えている様子とそれとを、きちんと同時に言いたい、ということになる。


この絵ではなぜか、凄いことに、夜の萩の風景ではなく、夜の萩が、白い襖の上に、異なる位相の、何の脈絡もない物質の上に、ちゃんと移植されたようになっている。これはやはり、すごく上手くいっているのではないかと、あらためて思う。いったいどうすれば、こんなことが可能なのか。


ほとんどが、江戸後期から明治初期の作品群である。会場をざっと見て、良いかも、と思えるものが数点、これはあんまり…と思うものも数点、なんでもないのが大部分、という感じである。