ニューヨークから、飛行機でアムステルダム、自動車でヴッパータール、そして汽車でミュンヘンへ。いくつもの出来事と、人々の顔と言葉、景色。アリスの母親は、なぜあのような表情なのか。彼女は物怖じせず、大胆で、いい加減で、ちょっと母親失格かもしれないが、しかしそんなことはどうでも良くて、彼女はなぜ、あのような表情でこちらを見ていたのか。
「作家」が、たびたび小さな手帳を取り出して、ことあるごとに何やらごちゃごちゃと小さな字をそこに書きつけている。それは何ともみみっちくてみっともない、せせこましい、チマチマとした行為に見える。仕事をしなければ、と言ったら、仕事ってなに?落書きのこと?と言い返される。そして何も言えなくなってしまう。そうだ、傍から見たら、こんなこと仕事には見えない。ただの落書きにいそしんでる妙な人間でしかない。でも、それが「作家」だ。
彼も最初はひとりで、ひとりであるがゆえの気楽さとイラつきを、自分自身として引き受けていた。テレビに苛ついてホテルの備品なのに壊してしまったり、女友達の家から追い出されたり、そんなひとりの男だった。しかしアリスの子守を請け負わざるを得なくなり、そのことが彼を制約し、抑えつけ、自由を奪い、それゆえに今までの気楽さもイラつきも取り上げてしまった。彼の不満は、それまでのものとは質を変えてしまった。
それにしてもヴッパータールという街は、あんなふうにモノレールが走り回っているのか。
初期ヴェンダースのようなロードムービーであっても、いやそれだからこそ、ある限定された枠内の世界という感触は強い。これはヴェンダースだからというよりも、映画だからだろう。なにしろその世界になかにさえいられれば良いと感じさせる強い催眠性というか常習性こそが、映画というフレームがもつ魅惑だろう。
移動手段としての、乗り物のすべて。中古自動車、電車、飛行機、レンタカー、船、モノレール、長距離列車。
ところで最近、映画を観たその日の夜は、必ず決まった夢を見る。といっても同内容の夢を見ているわけではないが、場所が毎回同じなのだ。おそらく小学校とか高校とか大学とかの校舎のイメージが混ざり合った共同施設の空間で、そこに自分は、たいていひとりで行動している。何らかの理由があって、階段を上がったり降りたり、特定の教室だか場所だかへ移動する途中で、知り合いともすれ違うし、見ず知らずの者も多い。あるいはトイレや給食室とか食堂のような場所も出てくる。
何を目指して移動しているのか、あるいはどんな出来事や経験があるのか、何を感じているかは、夢ごとにさまざまだが、なにしろ常にその同じ建物内、その空間内での出来事なのだ。そしてこの場所に囲まれて行動している感じ、そこは、個人的なはるか昔のなつかしい記憶に基づいてつくられた空間ではあるが、同時に映画のようでもある。自分にとってはさっきまで映画を観ていたときの感じと、密接に重なってくるかのようなのだ。映画の内容や質や展開についてではなくて、なにしろ映画という枠内が、その夢の中の空間と重なっているようなのだ。