グリージャ


「囀りとつまずき」について僕が以前ここに書いたことへのリアクション含め、三宅さんの日記内で、作品への批評検証を試みるすばらしい言葉の連なりと交感が記録されていて、これは、その箇所だけでもどこか別の場所でもいいから公開したらいいのにと思うほどすばらしく、書き手の狙いというか目指されたイメージみたいなのはすごくよくわかったし、なるほどそんな考え方もありうるのかと教えられ、これはもしかすると、語りの立場の根拠の無さを根拠の無さのままにはっきりと自覚したうえで作り上げていくことについての感覚的な繊細さというものに、僕が到底そのニュアンスに鈍く、あったはずの何かに気付けずに粗く進んでしまったのではないかと、自分の読みの精度に疑いをもったりもしたので、じつは先々週くらいにあらためてムージル「三人の女」の「グリージャ」を読み返したりもしていて、たしかにあの書き出しを読むと、三宅さんの語っていた語り手の問題--語り手がまず存在してなにかを語るのではなくて、なにかが語られるその語り口から事後的に架空の語り手が導き出される--という言葉が非常によくわかったような気がした。


「グリージャ」はたしかに、語り手の立場の無さというか、語り手の視線というか、語ろうとしている興味の対象の、ちょっと不安を感じさせるほどの揺らぎというのか、とりとめない感じというのか、なんなんだよ、、と言いたくなるような異様な調子がえんえん続くと云える。主人公のホモが、息子や妻に対する思いとか、一人になれることの喜びとか、そういう部分で引っ張っていくなんてことは一切なく、得体のしれない谷間と谷間の中間あたりにへばりついたような村の様子が、わかるようなわからないような変な感じで描写され、そこの住人の、これもまた何とも腑に落ちないような、まともなのかおかしいのかはっきりしない中ぶらりんな印象をたたえてあらわれてくる。まず人格的とも云えるような、ふつうの小説に通底するはずのものがなく、物質の描写だけがあり、それを語るための必然性というかその力の駆動源もよくわからないので、話自体が勝手に動く機械みたいな状態でただ進んでいくような感じか。…しかし、この木々や草花の描かれ方とか、小動物たちとか、その社会を構成しているらしき人間たちの共有し合い信じあっている共通の通念だとか…いったい何なのだろうね…。一個一個みていくと、何の「変な感じ」もしない。これら全体が、けして空想の産物ではなく、むしろ細かなところも全てが実際に起きた出来事だけで、はっきりと実在の時代の実在の場所を舞台にした、身も蓋もない自然描写の小説のようなので、だからそれは、従来のやり方ではないけれども、時間と空間は描かれている。それ自体は我々と地続きの世界なのらしい。


とか言って…じつはまだ読んでる途中で、グリージャが登場する箇所までは読み進めてない。先週以降の「こうの史代ショック」で途中停止してしまっていて…。