大連


世界ふれあい街歩き」は中国の大連。昨日のプレステVRを思い出しながらテレビ画面を見ていたのだが、いやこれは、もうVRじゃなくても、もうこのままで充分に完成していると思った。となると結局、媒体や形式を問わず、何を見ようとするのかということに尽きるのかもしれない。大連の街並みは素晴らしいと、言葉で簡単に言ったら消えてしまうのだが、大連と呼ばれるその空間を歩く、その視点の高さと、移動のスピードと、それで攪拌されて濁り、渦巻き、沈殿し、舞い上がり、目まぐるしく移り行く光。空間内の座標変化。世界がいくつもの細かな事実に分解されていくありさまの総体が素晴らしいのであり、どの要素だけを取り出すわけにもいかず、すべてが混然としたまま、つまりはそのようにしか認識できないという限界の中で、一次的な確認結果を、身体が報告してくれる。身体の外側のすべてが今、快楽だぞという信号が連続して上がってくる。目や鼻や耳や皮膚の感覚をひらけと言われる。身体の内側は年齢を重ねるので日々エラーを起している。じょじょに壊れてくる。外側のことは暗闇で、相手は見えない。相手がどのくらい辛いかは、想像するしかない。疑心暗鬼にならないように心がけないといけない。いい音楽が聴こえてくるなら、それを大事にしたほうがよく、立ち止まってしばらく見ていてもかまわない。