匂い

今や無くなったと思うものの一つは、匂いだと思う。とくに燃料、火器、機械がたてる匂いが、すっかり無くなったように思う。油、煙、煤、とくに冬はそんな匂いにぜんたいが包まれていたはず。重油か煤か別の何かかわからないけど、手を触れたら指に真っ黒な跡が残るような汚れが、昔はもっと当たり前にその辺にあった気がする。とくに駅構内や駅前とか、鉄工所とか、工事現場の機械とか。冬の駅の匂いというのがあった。寒気と、機械や油の熱が混ざり合って立てる匂い。蒸気によって少しだけ柔らかくなった衣類から立ち昇る匂い。自動車の背後を真っ白に曇らせる排気ガスの匂い。ホームの外れのフェンス外に立てたドラム缶から裸の火柱の動くのが見え、灰になった細かい紙片が白く舞い上がっては落ちる、風の向きが変わって煙がこちらに流れてくる、そのときの匂い。土と油と冷気の攪拌された、その季節にしかない匂い。視界ぜんたいをまだらに漂ってるタバコの煙、ベンチの下から立ち昇ってくる匂い、着物と羽織の擦れる音と箪笥の匂い、忙しなく行き交う人の化粧や整髪料の、前を横切って歩き去った女の香水の香り、立ち食い蕎麦屋の屋台から濛々と立つ湯気、ジャンパーやコート姿の男たちがひしめき合って丼に顔をうずめて蕎麦をかきこむ音と鰹出汁の匂い、鞄の奥底の匂い、質の悪い洗剤の匂い、手の中で温まった包み紙のインクが溶けて指や袖が薄黒く汚れて、インクの匂いとともに包まれていた握り飯の冷たさ、それらのたてるあらゆる匂いが、すべてぐしゃぐしゃになって混ざり合っている。ちなみに僕も、石炭は見たことないし匂いを嗅いだこともないのだが。