時間

本屋で、平井靖史「世界は時間でできている」を少し立ち読みしたら(以前、偽日記に引用された箇所はすべて読んではいたが)、やはりこれが冒頭から非常に面白くて、そのまま購入して今も読んでいる。まだ一章途中だが、すでに「そこをそのように解釈するか!」という驚きが、いくつもある。

たとえば言語がその根底に根拠をもたず、各言語間の諸関係を構成しているに過ぎないということと同じく、計測対象としての時間もまた根拠がないというその比較に、あーなるほど・・と思った。

辞書に書かれている各語句とその説明をすべて読み尽くしても、語句の説明に語句が使われているがゆえに、最終的な言葉の理解に至ることができない。Aについて調べると、AとはBであると書かれている。Bについて調べると、BとはCであると書かれている。それぞれの語句の意味(根拠)には決して到達できない。辞書とはこのように無限後退あるいは循環するような構造をもっている。

それと同じく、運動を計測するための計測器は、それ自体の正確性を問われずに用いられる。正確性を担保したければ、別の計測器との比較においてそれを実施するしかない。しかしそれもやはり無限に後退あるいは循環のなかへ吸い込まれてしまい、どこまで行っても正確な時間の根拠は見いだせない。というよりも計測のために見出された時間とはそのまま抽象概念だと思った方がいい(グリニッジ天文台の時計が一応「根拠」かもしれないが、それも人間の都合で恣意的に定められたものだ)。

ベルクソンにとって、計測された量としての時間、空間化された時間というのは批判されるべき対象なのだが、しかし計測や量的・空間的な把握は、人間同士の合意や約束ごととしての効力があるので、これらが無意味だというわけではない。計測という行為自体はどうしても必要だ。それは考えてみれば当たり前の話で、計測行為を全否定するなら、言語にせよ科学にせよ人間は物事をいっさい共有できなくなってしまう。ベルクソンの努力とは、ある考えを何とか他者に伝えようとする努力に他ならなかったわけで、神秘的で何となく魅力的なもやっとしたイメージを謳いたかったわけではない。

本書はベルクソンという異様な言説を、どれだけ明晰かつ納得のいくかたちで解釈し記述できるかという試みだ。

物質は宇宙に等しい、限度を設けられない、いわば空間的な制限が不可能であるがゆえ空間的に最大の広がりをもつが、同時に時間をもたない、時間が止まっているのではなく時間の流れが、極最小の状態。

システムとしての生物に知覚可能な最小単位を、「瞬間」と呼ぶ。瞬間と瞬間との間に幅を要するものを、「流れ」と呼ぶ。

こうして並べるだけでもう「世界はそのようには存在しないのだ…」と「世界はやはりそのように存在するのだ…」という矛盾がぶつかり合う感覚をおぼえる。つまり「納得」とは何のことか?と思う。