恋愛映画


「ムーンライト」の映像的な美しさというのは両刃の剣なところがありはしないか、ああいう表現によって、どうしても覆い隠される部分はあるのかもしれない、あのイメージ群が、誰によって見られていたものなのかと思う。でももしかして、そういう視線の道義責任とか倫理性とか、あまり無いというか、むしろ作品自体を後述のように仕上げたことがそうなのか。倫理というよりは、道徳性、PC的配慮なものに、どうしても感じるけれども。


厳しく辛い過去の記憶をもつ主人公が、思い出したくないが思い出してしまった辛い記憶のひとコマとして、子供の頃にヤク中の母親から「私を見るなー!」みたいに怒鳴られるシーンがあった。この部分は前半と後半で同じシーンが二度出てきて、ただし一度目は無音で、二度目の回想でその怒鳴り声も含めてはじめて聞こえるので、観客もそこで母親が何を言ったのかはじめて知り、そのとき主人公の「私」の部分の根幹にその言葉が浴びせられたのだと理解する。しかし、やはりこれだとすっきりとわかりやす過ぎるし、こういうのってたぶん、本来もっとおびただしく様々なものが映り込むはずのものなんじゃないか的な、どうも腑に落ちないような気がしてしまって、どうも何か、不必要と判断されたものはきれいに消去させられている感が、どうしても否めないのだが…


などと思って、でもこれはそもそも、そういう映画ではなくて、普通にファンタジーというかラブロマンスと考えるべきであって、そういう映画ではないのか。むしろ、黒人しか出てこないのに思ってたイメージと違うと考えている自分の固定観念が、いったい何なのか。そう、これはもっと全然何でもないような佳作の小品に過ぎない。思い出せば思い出すほどそうで、それこそ「純愛」みたいな…。これはつまりそういう話で、自分の中に守りたかった何かみたいな、たぶんそんな些細でキレイな(それこそ、実際ありえないような?)ことが、描かれていたのだ。


幼少時の主人公は、ヤクの売人で金持ちの男との出会いによって、おそらく無償の愛情を受け止め、自尊心をもつことを教えられる。売人の男の羽振りのよさは、それが主人公のの母親をも蝕んでいる薬物の、管轄下での売上げから生み出される利益によってであり、しかしその売人の経済的な余裕が、まったく見ず知らずの子供に対して助けたいと思うだけの精神的な余裕をも生み出しているだろうし、あるいは自らの子供をもちたい欲求を裏打ちしているようなニュアンスも感じられるが、それでも主人公はそのような少年時代を経て、自分のアイデンティティに目覚め、生きていくために社会性を勝ち取っていくために外見的にはじょじょに変貌していきながらも、自らを培った根底に位置する記憶は変わらずもち続けるだろう。だからこの作品はシレっとシンプルに、人種も性的アイデンティティーもぜんぜん関係ない普遍的なテーマが採用されていて、おそらくこのような幼少時の記憶やその後の成長時の記憶というのは、性別とか人種とかを問わず誰でも持っているもので、だから仕上がりはあくまでも普通な恋愛映画、それを繊細で丁寧に仕上げてみましたという、登場人物がすべて黒人の映画でそういうやり方をしたこと、そのように見て感じたこと自体が、この映画作品のやや意地悪な仕掛けに驚いた、ということになるのかもしれない。