Little Person

山野辺太郎「いつか深い穴に落ちるまで」文藝 2018年冬季号 を読んだ。読了してまず感じるのは、どうしようもなさのかなしみというか、あきらめの感傷というか、この私の存在の中心にある空っぽな切なさのようなものだろうか。組織とか社会とか人波の中で、ある存在が手探りでその都度最適を選びながらどうにか生きていくことの、地面を這う蟻の行く先を上からじっと見ているときの、その小さな存在のけなげさ、必死さの向こう側が見えてしまっていることへの可哀相さにも通じる、無力さやかよわさやどうしようもなさに、しばし感傷的な放心状態となる。本作の主人公はそれでもあまりにも従順で無抵抗で善意の第三者的で、仕事への思いも恋慕の情も内に秘めたままの受け身のままで、しかし最期は勤め人としての生のささやかな矜持みたいなものをかすかに光らせて、そのまま静かに最後の場所へ立つ。

いやいや、寓話として品良く…って事かもしれないけど、人ってもっとよこしまで卑劣で無神経でもいいのではないか、それで最期は神様の前に堂々と出ていけばいいじゃないか、そんな透明で欲望の匂いのない生などあるだろうか、と、こちらがやや逆キレ気味で言いたくなる気もして、最後もそれでいいのかとも思うのだが、しかしそれはそれだ、作品がそうだと言うよりも、作者自身の人となりがきっとそうなのだろうとも思う。まったく作品は人なり、であるなあとも思う。

チャーリー・カウフマン脳内ニューヨーク」を夫婦のどちらから言い出したわけでもないが、なぜこれをとつぜん再見することになったのか、前日たまたまテレビでカポーティ役のフィリップ・シーモア・ホフマンを見かけたからか、それとも「いつか深い穴に落ちるまで」の読後感が、なぜかこの映画を思い出させたからか、あるいはジョン・ブライオンの手による音楽の、ことにLittle Personと名付けられた曲の素晴らしさがふいに思い出されたからか、とくに理由もなく、あるいはそれらのどれでもあるような理由によって、DVDで観る。

まあ、感想は前回観たときとあまり変わらなくて、こちらはまた、きわめてペシミスティックで自家中毒的であまり同情する気にもなれない登場人物たちばかり出てくるのだが、それでもああして年月が過ぎていって人が去っていき、廃墟の中で、なおも夢が枯野をかけめぐって、やがて自分も消えていく…というとき、その瞬間、ほとんど麻薬的な甘美さをともなってLittle Personが再生されるとき、観る者はどうしても言葉をうしなうし、そのどうしようもなさのかなしみ、あきらめの感傷、あたえられた枠内の空虚さの痛みと甘みのどっちつかずの中で、ぼんやりとするしかなくなってしまうようだ。老けたサマンサ・モートンの感じなど、しみじみと良さが湧き上がってくるような印象は感じられた。

Little Person
http://www.youtube.com/watch?v=IA_ubhYgjAc