連笑

色川武大『百』より、「連笑」を読んだ。良かった。しみじみと、感傷だけではない渇いた抒情感がすばらしい。

兄の立場、気持ちというのは、こういうものだろうか。常に心のどこかで気にかかっている、自分が庇護しなければいけない、もし何かあれば、自分が身をもって助けてあげなければいけない、そのような存在、それが弟というものだろうか。「殴れば泣いてしまう、そのくせ、どこまでも後をついてくる、あの不思議な関係」としての兄と弟。

兄も弟もすでに成人して、それぞれの道を歩んでいる。主人公の兄は堅気の道を外れて、日々賭博にうつつを抜かしている。弟はサラリーマンとして一人で暮らしている。そんな弟が交通事故に合い入院したので、兄は見舞いに行き、日々身の回りの世話をしてやる。子供の頃からいつも自分の後をついてくる弟が、いまどんな人間で、その奥底に何をまとめあげているのか、どんなバランスで自分を成り立たせているのか、あるいはどんなバランスの崩れ方で、自分本来を表現するのか、それが出来るのか、それを兄は知りたくて、久々に会った弟につきまとう。弟もそんな兄を迎え入れ、束の間、二人で暮らし、一緒に旅行へも行く。

儀礼的な言葉や行動などいっさい必要なくて、二人でただ「どうしようもないやね」と顔を見合わせるだけで済むような、何の屈託もない関係である。でもそうであったはずという思いは屈託になって胸の内側に摩擦を起こす。相手をおもんばかって、配慮して、気を遣って、まるで薄氷を踏むように、踏んではいけない場所に細心の注意を払いながらおそるおそる進むように、兄は弟を気にして、しかし弟の内側にあるものを知りたい。それはさいごに、たぶん拒まれて、でもそういうものではないのだ、そういう知り方が出来ないのだと、相手から無言で諭されるような、相手からそれ以上のおもんばかりをもって受け入れられ、こばまれるような、とても味わい深い最後へといたる。

つまり男兄弟のメロドラマではないかとも言えるけど、これが真に泣けるドラマであることは間違いない。いわゆるホモソーシャル的な手抜きな関係性とは対極にある、寄る辺なき、お互いの繊細さのみによって、ギリギリにつながる男同士の関係、それが身内であるからこそ余計に重たくもあり、ずっと前からの心の気掛かりでもあるような、自分の外側にあるかけがえのなさ。堅気じゃない兄だからこそ、これほど「甘えた態度」でそこを確かめたいと態度に示すことも出来るし、弟もそれをある程度は受け入れることができる。