古い写真

妻が古い写真の収まったファイルを大量に引っ張り出してきた。来週、亡父の法要があり親戚が集まるので、そのときに生前の父の写真でもあれば会話の糸口にもなるだろうとの考えらしいが、出てきた写真を見て、実際に我々の興味を惹き付けたのは父親の姿ではなく何十年も前の未だ若い我々自身の姿だった。

カメラが携帯電話の一機能として定着したのはおそらく00年代初頭だろうが、このアルバムに収まっている写真のうちもっとも新しいのは2009年の倉敷旅行のときで、その頃まで妻は旅行や外出時に使い捨てカメラを買って持参することが多く、携帯のカメラ機能を日常的に使い始めたのはたしか2006年頃に機種変したガラケーからだったと思う。高感度フィルムが内臓された使い捨てカメラ独特な写真写りの面白さが流行るのはそれから数年後のことだったが、当時の我々はそんな意図もなくそれで撮った写真を駅前のDPEショップで紙焼きしていた。たしかにドギツイ発色が面白いといえば面白いのだが、別にそれを面白がる意識もなかった。やがて時代はスマホ全盛になって、カメラ機能の性能も格段に向上して、いつの間にか写真を収めたファイルというのはそれ以上増えなくなり、デジタル画像がPC内に蓄積されていくことになる。

などという変遷の話はどうでもいい。これら2001年~から翌年あたりの写真。この写真も今日はじめて見たわけではない。もう十何年ぶりの再見だと思うけど、当時のこともこの写真の存在も、僕は知っていた。にも関わらず久方ぶりにみたそこに写っている自分の姿に、強烈な困惑を感じた。こんなはずではなかったと思うが…と戸惑った。

自分の髪が、長い、後ろ髪が妙に長くて、そして茶色い…。でも、そうだたしかに、当時はこんな感じだった、こんな髪型で一般的だったのだ。いや、思い出した。当時行ってた店のあいつのせいだ、あの美容師がいつも、物腰柔らかなようで実はこだわりが強いというか、何を言っても結局自分のやりたいようにしてしまうタイプというか、まあこちらも大して要望などなく大体でおまかせな感じだったのでそれは仕方ないのだが、それにしてもこの当時の自分の髪型は、完全にあの美容師の趣味で作られたものにほかならない。あの店か、まだあるなあ、アイツまだ居るだろうなあ、なにしろあいつが店長だからな。でも、まあ当時こういう感じは流行っていて、我々も世の中も皆そんな感じだったはず。しかし今見ると信じがたい。そして、こいつの顔がかなり父親に似ている、それをことあるごとに彷彿させる雰囲気がある。そしてさらに、こんなヤツ気にいらねえ…と、つい呟きたくなるような感じがあるのだ。とても気に障る感じなのだ。非常に不快なのだ。はっきりと当時の自分に距離感を感じた、というよりもこれは、すぐ傍に赤の他人が居るときの鬱陶しさに近いものだ。こういうやつが生きていたという事実は仕方なく認めるが、それが自分だとは認めない、いえ違います僕じゃありません、としか答えようがない。「この私」が、こんな入れ物の中に、入ってるわけないじゃないですかと。

まるで自分が昔書いた絵や文章を読んであまりの稚拙さになさけない思いをするのと似ていて、どうにもやるせない。その後、買い物に出掛けたのだが、外を歩いていてもしばらくのあいだ、写真の中で何の屈託もなくいい気になってる自分の顔が頭にちらついて鬱陶しくてかなわなかった。