惑乱・キース・ジャレット

その永井荷風に「断腸亭日乗」と題する長年の日記がある。大正年間の、四十の手前から始まって、昭和三十四年の四月二十九日の、「祭日、陰」の一行まで続いている。その二十九日の夜の内に亡くなったらしい。ひとり暮らしだったので、翌朝になって人の知るところになったという。
 この日記は今でも高年の愛読者が多いことだろう。いかにかけはなれた人生のことだろうと、それなりに我が身に、ゆっくりと照らし合わせて読む。これが高年の読書の味である。むずかしいことは思わずに、記されたことに添っていくうちに、身に覚えのあることがさまざま出てくる。五十の坂とか六十の坂とか言われて、人生は十年ほどを刻みに、節目というものがあるようで、そこにその人の性分や境遇から来る惑乱が集まる。惑乱でありながら、解脱のようでもある。解脱のようであって、いよいよ惑乱である。分裂しているようで、惑乱も解脱もひとつのことであるらしい。
 日記は年を重ねる。読むほうも年を重ねる。読み返すたびに、以前は見えなかったことが見えてくる。読むほうの自己認識が深くなったしるしである。自己認識が渋くなった、とむしろ言うべきか。
 
断腸亭日乗』を読む 234ページ 古井由吉楽天の日々」より

などという文章には、やはり抵抗をおぼえずにはいられない。古井由吉は、こういうことを言いすぎる、というか、こういうリズム感で、こういうことを言ったら、それこそベタベタで手の施しようがなくなると感じてしまう。若いうちから古井由吉が好きだという文学愛好の人は、つまりそういう味わいこそが大人の味だし文学の味だと思うから、それを良いと先に口に出したいのだろうと思う。そうでもなければ、こんな文章を良いなどとは言えないはずだと思う。そして、いまだにそのよな抵抗を感じながらも、いまの時点の自分がこれを読んで、まあそういうことかもしれないが…と肯定せざるをえないことが書いてあるのは否定できない。自己認識が深く、渋くなったと言うとカッコよすぎるけど、つまりは「身に覚えのあること」の割合がふえてくるので、書かれていることの生えている根元のところがよく見えてしまう気がして、そこに一抹の寂しさをおぼえながら読んでる、というときはあるのだ。そして、それでいいんだろうなあ…という諦めのよな自己肯定もあって、でもそれだけでは退屈だし、そういう型へのハマり方のダサい感じがイヤだとも思うし、そういうのが「惑乱」なのかどうかは知らん。

キース・ジャレットにとってのオーネット・コールマン。「Hamburg '72」に収録されてる"Piece for Ornette"はたしかに、彼にとっての、彼の心の中にあるオーネット・コールマンで、それが彼らしいヒステリーを患ったオーネット・コールマンという感じで、とても良くて、しかもリズム体はモチアンとヘイデンで、録音も良いので、聴いていてとても楽しい。

キース・ジャレット・トリオは、ドラムがポール・モチアンの「At the Deer Head Inn」が昔から好きで、いつものジャック・ディジョネットによる神経質に粒立ち立ったドラムではない、モチアン特有のベターっと湿気をともなって怪しく広がり沈滞するかのようなシンバルの音が聴こえてくる瞬間にいつも惹かれる。

キース・ジャレットジャック・ディジョネットの"Ruta and Daitya"という曲の後半のイナたいフォーク調の展開は、でもこのピアノが何十年も前から自分は好きで好きでいったんとりつかれるとかなり長いことそれが頭の中に鳴り響き続けてしまう。キース・ジャレットにとってのオーネット・コールマン、ニュージャズ、そしてマイルスのバンド…、ということでもあるだろうけど、この人にとってのフォーク・ソングとかカントリーとかイギリス的なアコースティックとか、若いころには一体どんなものを聴いて、何に惹かれてきたのだろうか。