仮説

ベルクソンに関する本を読んでいて、これほどまでに壮大で突拍子もない「仮説」があるものか…と、ふと我に返ったかのような、今までの全てからつきはなされたような感じを、ふいにおぼえるときがある。

そんなことは、しょせんすべて、絵空事かもしれないではないか、結局、今こうして「この私」が感じている「これ」だけが真実で、ここに書かれていることはどうあがいても「これ」の説明ではない、と、決めつけてしまうことは、容易に可能じゃないかと、そう思ってしまうこともできる。

結局のところ、「本当か嘘か」は「面白いかそうでないか」で、面白いから本当だとは思わないけど、面白くないけどこれが本当のことだとも、なかなか思えない。というか、思う意欲が沸かない。

意欲とは別の力で、それが本当であると思うのが「知性」である、ともし言われるなら、「知性」は控えめにしておこう、とも思う。
もちろん「面白さ」というもの、それ自体があるわけではない。面白さがそれ自体となった瞬間に、それを疑いたい。

しかしそういう話ではなくて、ベルクソンに面白さを感じるのだとしたら、その面白さとは、ある種の気がかり、のようなものに似ている。どうも気になる何か、どうも忘れてしまうわけにはいかない心の引っかかり、のようなものに似ている。面白さとは言えないかもしれないが、それがベルクソンについての関心を継続させる。直観というか、勘違いを誘発させる機微というか、どうもこの話を一笑に付すのが難しいと思わせる何かが、つねに発されている。

かつての人々---十九世紀から二十世紀初頭の画家や小説家ら---がやはり、そのような気がかりを、ベルクソンの著作に感じたのではないかと、だとしたらその「気分」をまずは知らなければと、自分は当初、思った。しかしベルクソンの受容は、様々な年代や場所において、様々に展開されているのだろうし、そう思うと、なかなか一筋縄では行かない。時空を越えて、誰もがそのことに一抹の不安をおぼえている。まさかこれが、あろうことか、ほんとうのことかもしれないではないか…と。