選択


かなり大昔のこと、ある女性が、僕に、なぜか「アドバイス」してくれたことがあった。


あまりひとつのことに、夢中にならないほうがいい。
あまりひとつのことに夢中になると、もしそのことがうまくいかなかったら、すごくショックを受けるから。
あらかじめ、いくつかに分けておくのがいいのよ。
一つに決めずに、二つか三つのことをバランス良く試すのがいいのよ。
そうすれば、どれかは上手くいくかもしれないし、どれも上手くいかなくても、ショックが少ないでしょ。


僕はそれを聞いて失笑した。あきれて、鼻で笑った。
なんという安全策。なんと小賢しい処世術だろうか。
効率的に自己を維持しながら、可能な範囲でがんばりましょう、みたいな。
まあ、君みたいに計算高い人には、そういう考え方が似合うだろうねと無言で返事した。


しかし、この言葉、妙にいつまでも自分のこころに残った。二十年以上経った今でも残っている。


この負荷分散施策は、いったい何なのか。
というか、そんなことが出来るなら、誰でもやっていることだろう。
もしかして僕も、この数十年そこそこ器用に、そんなプランで、よろしくやってきたのかもしれない。だとしたら、笑えない話だ。


とはいえ、このやり方しか選べなかった、選ぶほどの自由度は無かった、という実感はある。人間、そう便利に思いのままに進行方向を決められるものではない。


そんなに強く否定するべき「アドバイス」というわけでも、なかったのかもしれない。
当時は、余計なお世話だと一蹴することで、かえって自分という枠の優先順位を守りたかったのかもしれない。


絶対に譲れないと考えることもできるし、徹底的に譲ろうと考えることもできるだろうが、どちらにしても同じかもしれない。


自分を、今ここにいるのではなく、まったく別の文脈に生じた過程的存在であると、容易にイメージすることができたら、それは良いことだ。それこそが、すばらしい想像力だ。
それは緩くて解釈の余地に開かれた多様なパターンを許容することだから。
この私でさえ、そのような束のひとつの可能性でしかないと思うことができるなら、それはそれで、一つの幸福ではあるだろう。


「芸術と知」を愛するとか「叡智」を求めるというのは、宗教を信仰するという事ではない。
そのために自分を空しくしようとするところは似ているかもしれないが、芸術というのは原則として快楽的なものである。それを優先させるために自らの生を組織するということである。