自分の中のエディプスコンプレックスに興味はある、とか思い始めたのは実父の死去がきっかけだったかもしれないが、実父がいなくなったら自分の内面に何か変化があるわけではないのは当然で、それ(実父)とこれ(象徴的父)とは現時点では無関係としか言えない。自分はごくごく平凡な神経症だろうとの自覚はある。完全に去勢され切った、いや極度に去勢をおそれる者であるとの自覚はある。それは(実父)が死んだからといって消えるものではない。もう二度と「お父さんに怒られない」のは事実なのにだ。自分が象徴的父へのおそれに基づいた何がしかの価値を信じているのかいないのか、いまだにわからないままだ、いや信じているのだろうが、その根拠を求めての遡行は不可能ということもわかる、そして今まで通り、ふらふらするばかり、この自分の行き当たりばったり性は、そのようなおそれに対する抵抗なのか開き直った肯定なのか、自分にもわからない。とにかく実父がはっきりと示してくれたのは「死ぬときって大体こういう感じ」とでも言ったような、目の前に起こる些細な出来事の類のニュアンスであり、それは僕に少し先行して生まれて、そして僕の父であったために、たまたまそれを僕に意識させたということであった。それは位牌や墓とはまた違ったかたちで、一人のたまたま僕に近しかった老齢の男性が死んだ事実という名の小さな塊としてある。その物体を見ていることのショックというものも、たしかにある。