邯鄲


銀座の観世能楽堂で第二十五回能尚会。番組は能「邯鄲」、狂言「謀生の種」、仕舞「松浦佐用姫」、能「石橋」。


「邯鄲」はこれまで観てきた能のなかでもっとも現代的というか、もっとも物語を感じさせるというか、つまり観ているこちらが、これまでにないほど舞台上の出来事に感情を移入させやすいものに思えた。「邯鄲の夢」とのたとえにある、いわゆる夢オチものであり、枕を借りて眠った主人公がこの世の富と栄光をほしいままにして五十年の生を生きる夢を見て目が覚める、という話である。


後半に強いカタルシスがあるというか、地謡と踊りがしだいに白熱していくのが伝わってきて、それが頂点に達したとき、眠りから醒めるという流れになる。ゆえに目覚め直後の沈滞した空気がたいへん印象的で、俯いて呆然としているその能面の「横顔の表情」に、喜びともかなしみとも諦念ともいえないような何事かが浮かんでいるような「余韻」を見た気がして、かようなイメージを見てしまうということが能という形式内で起こりうるのかと、自分の感じたものに妙な不自然を感じた。これが現代的なアレンジが施されたことによるのか、昔から変わらないものなのかは、わからない。いや、登場人物が喜んだり悲しんだり呆然としたりする姿、自分はそれで何かを見た気になるのでそれを望んだ、というだけのことかもしれないが。


そもそも能はまったく何もない舞台に、はじめ地謡がぞろぞろと出てきて、舞台道具が設置されて、ゆっりと演奏がはじまって、ワキが出てきて…という始まり方で、それが始まる前と後を断絶しようとはしない。終わるときも同じようにゆっくりと退場していき、舞台道具も片付けられて、地謡の最後の一人が舞台を去るところまできっちりと続く。映画のエンドクレジットをひたすら最後まで観ているのと同じような時間が生じる。歌も踊りも物語を下地にしてはいるが、掛け合いや繰り返しのパターンに咀嚼されて、時系列的な語りのなめらかさはまったく失われているのが普通である。踊りや歌を見ることと、今この現実とは別のある連なりの時間内世界に入り込んでいる、いわば虚構に囚われているのとは違う、というかどちらも虚構に囚われてはいるが、種類は違う。「邯鄲」では、そこで展開する能の表現としての出来事が、そのまま時系列的な語りを損なうものにはなってないように感じられるだけで、能としての印象が他の演目とまるで違うとか、そのようなことではない。


「夢」がテーマであることが、それが「現代的でわかりやすい」と感じられる理由かもしれない。夢と現実の落差を表現するというとき、数百年前と現在とで、さほどやり方に違いが出ない、ということかもしれない。


「石橋」は前に観たときもそうだったのだが、どうしても眠くなる。とくに前半の地謡のパートがけっこう長いので…。