我々

ルイ=フェルディナン・セリーヌ「夜の果てへの旅」の猛烈な戦闘場面。映画「プライベート・ライアン」の冒頭のシーンを思い出してしまう。頭の上を銃弾が飛び交い、十秒先、一秒先には生命を失うかもしれない目の前で、他人がモノのように吹き飛んで死骸となる、こんな恐ろしい瞬間が映画や小説に描かれる時代なんてものが、それまであったのだろうかと思う。ムージル「黒つぐみ」の戦場場面もそうだ。彼らは自分の体験が、有史以来未曾有の、技術的に増幅された大量殺戮の現場におけるものだということを、どれほど認識しえたのだろうか、あるいはまったくそんな考えに及ぶゆとりもなかっただろうか。

2011年、東北の震災が発生したとき、あるブログに「これからは父親の世代が経験したようなつらいことが起きるかもしれませんが、胸を張って立ち向かっていきましょう」と書かれていて、そのときはその文章に強く共感したおぼえがある。むしろこれから真価が試されるのだと。そして、やがて時間が経過し、当時とそれ以降の自らの思いにズレというかすき間のようなものを感じたりもした。

「この経験は、我々にとってはじめてのものか。」「この経験は、父親や祖父の世代にくらべてどうか。」といった過去との比較で目の前の経験を考えるのは、むしろ我々だけの性癖でしかないのだろうか。我々の祖父やもっと前の世代の人々は、ある苛烈な経験を前にして「この経験とは何か」などと考えることもなかったのだろうか。

「我々」と何の断りもなく書いているが、我々とは誰を指しているのか?僕の年齢はもう若くない、なら若くない者同士が我々か?若い者たちとはまた別か?そうではなくはじめから「我々」などどこにもいないのでは?